源頼朝は、「清和源氏」の一流の「河内源氏」の七代目。 「清和源氏」は、清和天皇の皇胤が「源」姓を賜ったことからはじまる氏族。 そのなかでも、貞純親王の子経基の子孫が栄えた。 |
河内源氏の祖源頼信 |
河内源氏は、東国の武士団を支配下に置き、河内国を本拠とした源頼信を祖としている。 頼信が1028年(長元元年)に起こった平忠常の乱を平定したことにより、河内源氏が東国に勢力を持つようになる。 |
源頼義 |
頼信の子頼義が、平直方から鎌倉の屋敷を譲り受けたことにより、鎌倉は東国支配の拠点となった。 頼義は、直方の娘を娶り、義家や義光が生まれている。 『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府の執権となった北条時政は、平直方の子孫なのだとか。 |
鶴岡八幡宮の前身由比若宮は、1063年(康平5年)に頼義が石清水八幡宮を勧請した社。 |
源義家 |
頼義の子義家は、石清水八幡宮で元服したことから「八幡太郎」と呼ばれた。 鎌倉の中心部にある源氏山は、義家が後三年の役へ出陣する際、源氏の白旗を掲げたことからそう呼ばれるようにになったのだと伝えられている。 |
頼義は、 甘縄神明神社に祈願して子の義家を授かったのだと伝えられている。 |
壺井八幡宮は、河内源氏二代棟梁の源頼義が石清水八幡宮を勧請して創建した社。 |
通法寺は河内源氏の菩提寺だった。 源氏三代(頼信・頼義・義家)の墓がある。 |
義家の長子義親は反乱を起こし隠岐に流され、義家を継いだ四男義忠が暗殺されるなど、一族間の争いもあって源氏は衰退していく。 暗殺された義忠の跡は、義親の子為義が継いだ。 |
源為義 |
為義は、1156年(保元元年)に勃発した保元の乱で崇徳上皇方についたが、後白河天皇方についた嫡男の義朝と平清盛に敗れ、斬首されている。 |
源義朝 |
為義の子義朝は京で生まれたが、幼少期に東国に下向し、上総氏の庇護を受けて成長したといわれている。 そのため「上総御曹司」と呼ばれていた。 一説には、為義の嫡子ではなかったともいわれているが定かではない。 東国で勢力を伸ばした義朝は、1143年(康治元年)には相馬御厨を、1144年(天養元年)には大庭御厨の支配権問題に介入し、さらに勢力を拡大した。 |
※ | 相馬御厨は、千葉氏が伊勢神宮に寄進した荘園。 |
※ | 大庭御厨は、鎌倉権五郎景政が伊勢神宮に寄進した荘園。 |
その後、どのような経緯があったのかは不明だが、相馬御厨を治めていた千葉常胤も大庭御厨を治めていた大庭景義も義朝の傘下に入っている。 また、この頃、三浦義明も義朝の傘下にあった。 1155年(久寿2年)には、長子義平に、東国に勢力を伸ばしてきた弟義賢を討たせている(大蔵合戦)。 義賢は父為義の命によって義朝に対抗するために東国へ派遣されたといわれている。 1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れた義朝は、東国に逃れる途中、家臣の長田忠致の裏切りに遭い最期を遂げた。 従っていた嫡男の頼朝は、捕らえられて伊豆国の蛭ヶ小島へ流された。 |
義賢は、武蔵国比企郡大蔵に館を構え、南関東へも勢力を伸ばしつつあった。 義賢の次男駒王丸は、1180年(治承4年)、以仁王の令旨を受けて挙兵した木曽義仲。 |
壽福寺は、義朝の旧跡地に建てられた寺。 義朝は鎌倉を拠点として活動し、亀ヶ谷に屋敷を構えていたのだという。 沼浜(現在の逗子市)にも屋敷があった(沼浜亭)。 |
源頼朝 |
1180年(治承4年)、後白河法皇の皇子以仁王が全国の源氏に平氏追討の令旨を発し、伊豆国の頼朝が挙兵。 石橋山の戦いで大庭景親・伊東祐親らの平氏軍に敗れたものの、海路で安房へと渡り、千葉常胤・上総広常などを従えて鎌倉に入り、本拠地とした。 富士川の戦いで勝利し、佐竹討伐を行った後、東国の整備に力を注ぐ。 大倉の新邸には、侍所が設置され和田義盛が別当に就任。 1182年(寿永元年)、嫡子頼家が誕生。 鶴岡八幡宮の参道若宮大路は、北条政子の安産祈願のために造営されたのだと伝えられている。 1183年(寿永2年)、十月宣旨により東海・東山両道における頼朝の支配権が認められ、これまで反乱軍として扱われていた鎌倉軍は、朝廷から認められる軍となった。 1184年(元暦元年)、京の木曽義仲を追討し、一ノ谷の戦いで平家を敗走させた。 この年、御所に公文所(別当:大江広元(のちの政所))と問注所(執事:三善康信)を設置し、軍事・行政・裁判の3つの機関が整えられた。 1185年(文治元年)、屋島の戦い・壇ノ浦の戦いで平家を破り滅亡させた。 1189年(文治5年)、奥州の藤原泰衡を攻め、四代にわたって繁栄を極めた奥州藤原氏を滅亡させた。 これより前、頼朝の弟義経が泰衡に攻められ衣川館で自刃している。 1190年(建久元年)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられる。 1192年(建久3年)、征夷大将軍に任じられる。 この年、実朝が誕生。 1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿の落慶供養に参列。 この上洛は、長女の大姫を伴ったものだったが、大姫を入内させるためだったといわれている。 1198年(建久9年)、相模川の橋供養に参列し、その帰路に落馬。 それが原因となって翌年正月13日に亡くなくなったと伝えられている(享年53)。 |
1180年(治承4年)、 頼朝は先祖頼義が建てた由比若宮を現在の地に遷座。 武家の都「鎌倉」は、鶴岡八幡宮を中心に整備されていった。 |
勝長寿院は、頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺院。 |
永福寺は、奥州平泉の中尊寺、毛越寺、無量光院などを模して建てられた寺院。 |
頼朝は、平重衡の南都焼討によって灰塵と帰した東大寺の復興を助成した。 |
源頼家 |
頼朝の亡き後、嫡子頼家が家督を継ぐが、間もなく頼家の乳母夫の一人梶原景時が鎌倉を追放され、駿河国で最期を遂げた(梶原景時の変)。 1203年(建仁3年)、頼家の外戚として権力を伸ばしつつあった比企能員が北条時政に暗殺され、頼家の嫡子一幡も滅ぼされた(比企能員の変)。 この政変で頼家は、修禅寺に幽閉され、翌年、暗殺された。 |
源実朝 |
頼家のあとは、弟の実朝が継いだが、その実権は北条氏に握られていた。 1205年(元久2年)、畠山重忠が北条時政の陰謀によって、武蔵国二俣川で討死(畠山重忠の乱)。 子の重保も由比ヶ浜で三浦義村に討ち取られている。 畠山重忠の乱後、時政の後妻牧の方による陰謀も発覚し、時政は鎌倉を追放された。 時政に代わって北条義時が政所別当に就任。 1213年(建保13年)、侍所別当の和田義盛が義時に滅ぼされた(和田合戦)。 和田合戦後、義時は政所別当と侍所別当を兼ねている。 父頼朝以来の御家人が次々に滅ぼされる中、実朝は和歌にふけり、官位昇進を望み、渡宋まで計画した。 金槐和歌集 宋に憧れた将軍源実朝 1219年(承久元年)、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式が終了した直後、実朝は甥の公暁によって殺害された 実朝を殺害した公暁も三浦義村邸へ向かう途中で討ち取られている。 この事件で、源氏による武家政権は、頼朝・頼家・実朝の三代で終わりを告げた。 断絶した頼朝の血筋 失敗だった?頼朝の鎌倉殿継承構想 |
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