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結城朝光を讒言したことで御家人66人の弾劾にあい、1199年(正治元年)12月18日、鎌倉を追放となった梶原景時。 『吾妻鏡』によると・・・ 1200年(正治2年)1月20日丑の刻(午前2時頃)、景時は子息らとともに上洛するため一宮館(現在の寒川町)を出発。 その知らせが鎌倉に届くと、北条時政・大江広元・三善善信が御所に集まって相談し、景時を征伐するため、三浦義村・比企能員・糟谷有季・工藤行光らを派遣している。 |
景時らは亥の刻(午後11頃)、駿河国清見関に到達するが、射的のために集まっていた在地武士と遭遇し、廬原小次郎・工藤八郎・三沢小次郎・飯田五郎(家義)らに襲撃される。 景時は狐崎で合戦に及んだが、子の景茂・景国・景宗・景則・景連が討死。 景時と嫡男景季・次男景高は、後方に山に引いて戦い討死。 翌日、山中で景時と景季・景高の首が探し出され、一族33人の首が路頭に懸けられたのだという。 |
清見寺の大玄関の天井板は、清見関の古材が使用されたもので、合戦で付いた血痕があることから血天井と呼ばれる。 |
1月23日、駿河の者と派遣した部隊が帰着し、合戦の記録を提出。 その記録には、正治2年1月20日、駿河国で梶原景時父子と一族及び郎党を滅ぼした事が記され、 |
○ | 廬原小次郎が真っ先に敵を追い込んで、梶原景国・景則を討ち取ったこと。 |
○ | 飯田家義の手先が、梶原景茂の郎党2人を討ち取ったこと。 |
○ | 吉川友兼は、梶原景茂を討ち取ったこと。 (※友兼と景茂は相討ち) |
○ | 渋川次郎の郎党が、梶原景時の一族4人を討ち取ったこと。 |
○ | 矢部平次の郎党が、梶原景季、梶原景高、狩野兵衛尉の3人を討ち取ったこと。 |
○ | 矢部小次郎は、梶原景時を討ち取ったこと。 |
○ | 三沢小次郎は、梶原景時の郎党を討ち取ったこと。 |
○ | 船越三郎は、梶原景時の一族を1人を討ち取ったこと。 |
○ | 大内小次郎は、梶原景時の郎党一人を討ち取ったこと。 |
○ | 工藤八郎の郎党と工藤六郎は、梶原景連を討ち取ったこと。 |
が記されていた。 人々が言うには、梶原景時は以前から「駿河国内の吉川小次郎は第一の勇士で、もし密に上洛するときには、この男の屋敷前を通り過ぎれば、恐れるものはない」と語っていたのだとか・・・ |
『北条九代記』によると、景時と嫡男景季・次男景高は、連れだって背後の山に引き、自害したのだと伝えている。 首は郎党が隠したが、探し出されてしまったのだという。 『吾妻鏡』にも、1月21日の条で「景時らの首を探し出した」という記述があるが、23日条では景時らは討ち取られたとしている。 誰かに討ち取られたのだとすれば、その者が首を挙げているはずなのだが、『吾妻鏡』の記述はつじつまが合わない・・・ |
1月24日、安達親長が景時が滅んだことを六波羅に知らせるため上洛。 持参した将軍源頼家の御教書には、京都にいる仲間を探し出して捕えるように書かれていたのだという。 また、この日、景時と朋友だった加藤景廉が領地を没収されている。 |
1月25日、美作国の守護職をはじめとする梶原景時父子の領地を没収。 駿河国の在地武士には、恩賞が与えられている。 また、追罸使となった比企能員と糟谷有季も恩賞に預かったのだとか・・・ この日の晩、景時の弟の梶原朝景が北条時政邸に出頭し、工藤行光を介して武器を差し出している。 1月26日には、糟谷有季が景時の朋友の安房判官代隆重を捕えている。 |
1月28日、甲斐国から石和(武田)信光が鎌倉に到着。 信光の報告によると、 「武田有義が梶原景時との約束を受けて、密かに上洛しようとしていると聞いたので、子細を尋ねるため屋敷へ向かったところ、すでに逃げ去った後で行方がわかりません。 ただ、一通の書状があったので開いてみると、景時からの手紙でしたので、景時に同心したのは明らかです」 とのこと。 信光の報告によって、梶原景時は鎌倉幕府に対する反逆を企て、天皇に許可を得るため、また、九州の武士を糾合するため、上洛しようとしたのだということが判明。 また、甲斐源氏の棟梁武田信義の四男有義を将軍に立てようとする書状があったことが判明したのだという。 |
2月2日に捕えられた勝木則宗は、和田義盛の取り調べに対し、梶原景時は「九州を支配するための宣旨を要求したから、急いで京都にくるように」という書状を九州の一族に送っていたのだという。 |
梶原景時の変で生け捕られた勝木則宗と畠山重忠の美談 |
建長寺で、毎年7月15日に行われる「三門梶原施餓鬼会」は、梶原景時の霊が蘭渓道隆と会ったことがきっかけで行われるようになったといわれている。 |
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