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武田信義(たけだのぶよし)は、河内源氏の一門新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の四代当主、甲斐武田氏の初代当主。 1128年(大治3年)8月15日、源清光の次男として誕生。 幼名は龍光丸・勝千代。 1140年(保延6年)、武田八幡宮で元服し信義を名乗る(13歳)。 |
武田の氏は信義の祖父・源義清が常陸国那珂郡武田郷(現在の茨城県ひたちなか市)を与えられたことで「武田冠者」と呼ばれたことに始まる。 その後、義清は隣国との境界争いから子の清光とともに甲斐国へ配流となった。 ただ、清光は武田を名乗った形跡がなく、信義が巨摩郡武田郷(現在の山梨県韮崎市)に館を構えて武田を継承したのだという。 |
武田八幡宮は、甲斐武田氏の氏神。 |
1180年(治承4年)4月、後白河法皇の第三皇子・以仁王が平家の打倒の令旨を発すると、一族を率いて挙兵。 伊豆国で挙兵した源頼朝に呼応して駿河国に侵攻し、10月の富士川の戦いでは、平維盛・忠度を大将とする東征軍に勝利。 戦後、頼朝から、信義が駿河国の守護に、弟の安田義定が遠江国の守護に任じられている。 ただ、この頃の甲斐源氏は、木曽義仲と同じく、頼朝の傘下にはなく、独自の勢力であったと考えられている。 その後、頼朝の傘下に入った武田軍は、源範頼・源義経とともに1184年(寿永3年)の木曽義仲追討、一の谷の戦い、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いに従軍している。 源頼朝の挙兵と甲斐源氏 |
平家越は、富士川の古戦場。 平家軍の背後に回ろうとした武田信義の軍勢に驚いた水鳥が一斉にとび立ったため、敵襲と勘違いした平家軍は戦わずして敗走しまったのだという。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1181年(治承5年)、後白河法皇が信義に頼朝追討の宣旨を下すという噂が流れる。 3月7日、信義は鎌倉の頼朝に対面して何度も弁解し、「子々孫々に至るまで弓を引くことはない」という起請文を提出している。 1184年(元暦元年)3月17日、三男の板垣兼信は、土肥実平の配下として働くことを不満として、自分を上司とするよう頼朝に訴えたが、頼朝に退けられたのだと伝えられている。 同年6月16日には、嫡男の一条忠頼が鎌倉に招き寄せられ、謀反の疑いがあるとして天野遠景によって暗殺された。 これにより甲斐源氏は一大勢力から鎌倉幕府の一御家人に転落してしまう。 1186年(文治2年)3月9日、信義が死去。 嫡男忠頼の謀反の許しを受けることができないまま亡くなったのだという(59歳)。 その後、三男の兼信は、1190年(建久元年)に違勅の罪で隠岐国配流。 四男の有義は、頼朝亡き後の1200年(正治2年)、梶原景時の変に同心して逐電している。 家督は五男の信光が継いだ。 |
願成寺は、武田信義の菩提寺。 境内には、信義のものと伝えられる五輪塔がある。 |
石和八幡宮は、甲斐国守護となった武田信光が鶴岡八幡宮を勧請した社。 |
兄弟の武田信義・安田義定らとともに、伊豆の源頼朝に呼応した反平家の挙兵に参陣。 平家追討では、次男の小笠原長清とともに参陣し、壇ノ浦の戦い後の1185年(文治元年)8月16日、信濃守に任じられた。 信義・義定が頼朝の傘下に入らず自立的行動をとったのに対し、遠光と長清は、頼朝に接近して一定の地位を確立した。 娘の大弐局は、源頼家と源実朝の養育係を務めている。 称名寺(横浜市金沢区)の塔頭光明院の大威徳明王像は、大弐局の発願で運慶によって造立されたことが判明している。 |
※ | 加賀美遠光は信義の叔父とする説もある。 |
1180年(治承4年)、武田信義・一条忠頼父子とともに以仁王の令旨を奉じて挙兵。 富士川の戦いで平家軍を破り、源頼朝から遠江国の守護に任ぜられたが、1183年(寿永2年)、木曽義仲の入京に呼応して入京するなど独自の行動をとった。 その後、1184年(寿永3年)の木曽義仲追討、一の谷の戦い、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いに参陣して活躍したのだが・・・ 1193年(建久4年)11月28日、長男の義資が永福寺薬師堂供養の際に女官に艶書を投げ込んだとして、梶原景時に訴えられ、加藤景廉に処刑された。 翌年8月19日には、義定も謀反を企てたとして処刑された(61歳)。 |
のちの戦国大名で無敵と呼ばれた騎馬軍団を率いた武田信玄は、武田家の19代当主。 |
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