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『吾妻鏡』によれば・・・ 1180年(治承4年)4月9日、源頼政は息子の仲綱とともに三条高倉御所を訪れ、以仁王に「源頼朝らの源氏を味方にして平家を討ち滅ぼすこと」を申し入れしている。 それに応じた以仁王は、藤原宗信に命じて令旨を発布させると、源行家を東国へと向かわせ、まずは、伊豆国の源頼朝に令旨を伝え、その後、他の源氏にも伝えるよう手配した。 そして・・・4月27日、伊豆国の北条館に令旨を携えた源行家が到着。 源頼朝は水干に着替え、まず石清水八幡宮を遙拝した上で、謹んで開いて見たとのだいう。 |
皇太子や皇后、親王・諸王などの皇族の命令を伝える文書のこと。天皇の命令は「宣旨」、上皇の命令は「院宣」となる。 |
以仁王が発した令旨は・・・ 平清盛・宗盛らが、後白河法皇を幽閉したことや、天皇に逆らい仏法を破滅させようとしていることなどの暴挙を理由に、壬申の乱における天武天皇の前例に倣い、王位の簒奪を謀る反逆者・平清盛とその一族を追討するため、東海、東山、北陸の三道諸国の源氏並びに軍兵に対して下された命令だった。 以仁王が発した平家打倒の令旨 |
後白河法皇の第三皇子。 母の出自が高貴でなかったためか、幼年期の動向は、あまり知られていない。 1179年(治承3年)、平清盛が後白河法皇を幽閉すると平氏討伐の準備を始めたという。 『平家物語』は、建春門院滋子の嫉みで三条高倉の御所で不遇の生活を送っていたと伝えている。 |
摂津源氏(参考:六孫王神社)。 平氏以外の武士で唯一公卿となった。 『平家物語』は、平清盛の三男宗盛が、頼政の嫡男仲綱が秘蔵していた名馬を強請し、仲綱と名付けて辱めたことから、清盛に対する謀反を起こしたと伝えている。 宇治平等院の戦いで自害(参考:源頼政の墓)。 |
源為義の十男(源頼朝の叔父)。 初めの名乗りは義盛。 平治の乱後、熊野に逃れ新宮十郎と名乗り、いずれ訪れるであろうチャンスを待っていたのだという。 後白河法皇の妹八条院の蔵人となり、行家と改められた。 |
以仁王の邸宅は、三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。 |
1159年(平治元年)、平治の乱で平清盛に敗れた源頼朝は、翌1160年(永暦元年)3月11日に伊豆国流罪となった(当時14歳)。 流された場所は蛭ヶ小島と伝えられ、約20年間を伊豆国で過ごしていた。 北条政子と結婚した後は、北条時政の館に住んでいたと考えられている。 |
北条氏邸跡 (北条時政館) |
伊豆韮山 (源頼朝配流地) |
※ | 北条氏邸跡にある成福寺の建つ地に、頼朝と政子のために建てられた別邸があったともいわれる。 |
諸国の源氏に令旨を発した以仁王だったが、その計画は5月の初旬には平家方に露見したものと考えられている。 『吾妻鏡』によれば、5月15日、以仁王は土佐国流罪と決定されている。 この日、検非違使の源兼綱(頼政の養子)と藤原光長が三条高倉御所を襲撃しているが、以仁王は源頼政の知らせを受けて逃亡した後だった。 5月19日には園城寺(三井寺)に入り、頼政も近衛河原の邸に火をかけ、家人らを引き連れて合流している。 そして、5月26日、南都へと向うが、平知盛、維盛ら2万の軍勢に攻められ、頼政は宇治平等院で討死した。 その子息(仲綱、兼綱、仲宗)なども梟首された。 以仁王は、頼政らが戦っている間、南都へ向かうが、南山城の加幡河原で平氏の家人、藤原景高・伊藤忠綱らの追討軍に追いつかれて討たれている。 以仁王の平家打倒の計画は失敗に終わっているが、源頼朝や木曽義仲などの源氏の挙兵へと繋がり、平家滅亡の糸口となった。 ただ、都では、令旨を発した以仁王を皇位簒奪を謀った謀反人として扱っている。 |
平等院 |
宇治橋 |
※ | 以仁王が南都に向かったのは、三井寺の僧兵が少ないことから、東大寺・興福寺の衆徒を頼りにするため。 |
948年(天暦2年)、京都八坂の五重塔が皇居の方へ傾いたときに、浄蔵貴所という僧が傾いた八坂の五重塔を法力で元に戻した。 その際、祈祷の本尊だったのが、鎌倉の浄光明寺にある不動明王像だったという。 不動明王像は、高雄山に祀られていたが、文覚が以仁王の令旨をこの像の中に隠し、伊豆国に流されていた源頼朝に渡したという伝説が残されている。 そのため浄光明寺の不動明王像は「八坂不動明王像」と呼ばれている。 |
京都八坂の塔 |
浄光明寺の不動堂 |
以仁王の令旨を受けた源頼朝は、1180年(治承4年)8月17日に挙兵。 石橋山で大敗したものの、安房(源頼朝上陸地)に渡って軍勢を整えると10月6日には相模国に入り、鎌倉を本拠と定めている。 |
源頼朝特集・・・挙兵から鎌倉入り(okadoのブログ) |
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