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1180年(治承4年)4月9日、源頼政の申し入れを受けて、源頼朝をはじめとする全国の源氏に平家打倒の令旨を発した以仁王の邸跡。 |
以仁王は後白河法皇の第三皇子。 邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。 母の出自が高貴でなかったためか、幼年期の動向は、あまり知られていない。 1179年(治承3年)、平清盛が後白河法皇を幽閉すると平家討伐の準備を始めたのだという。 『平家物語』は、建春門院滋子の嫉みで三条高倉の御所で不遇の生活を送っていたと伝えている。 |
諸国の源氏に令旨を発した以仁王だったが、その計画は5月の初旬には平家方に露見。 『吾妻鏡』によれば・・・ 5月15日、以仁王は土佐国流罪と決定され、検非違使の源兼綱(頼政の養子)と藤原光長が三条高倉御所を襲撃しているが、以仁王は源頼政の知らせを受けて逃亡。 5月19日には園城寺(三井寺)に入り、頼政も近衛河原の邸に火をかけ、家人らを引き連れて合流している。 そして、5月26日、興福寺の僧兵を頼って南都へと向うが、平知盛、維盛ら2万の軍勢に攻められ、頼政は宇治平等院で討死した。 以仁王は、頼政らが戦っている間、南都へ向かうが、南山城の加幡河原で平氏の家人、藤原景高・伊藤忠綱らの追討軍に追いつかれて討たれている。 以仁王の平家打倒の計画は失敗に終わっているが、源頼朝や木曽義仲などの源氏の挙兵へと繋がり、平家滅亡の糸口となった。 |
京都市中京区東洞院通姉小路下る曇華院前町 |
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