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小笠原長清(おがさわらながきよ)は、甲斐源氏・加賀美遠光の次男。 母は杉本義宗の娘(和田義盛の妹?)。 妻は上総広常の娘。 甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続し、高倉天皇から小笠原の姓を賜った。 父の遠光は滝口の武者(内裏警護の武士)として高倉天皇に仕えていたのだという。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1180年(治承4年)10月19日、平家軍を迎え撃つため黄瀬川の宿所にいた源頼朝のもとに参陣。 それまでは平知盛の被官として京にいたが、母の病気を理由に帰国を許してもらたのだという。 その後は、鎌倉御家人として活躍し、信濃守に任じられている(長清は信濃守護家小笠原家の祖)。 1188年(文治4年)正月20日の二所詣や1193年(建久4年)5月の富士裾野の巻狩りに随行。 同年8月16日の鶴岡八幡宮放生会の流鏑馬で射手を務めた。 1194年(建久5年)には、東大寺の大仏殿の多聞天像造立の負担を命じられている。 頼朝の死後、子の長経が源頼家に仕えたことから、1203年(建仁3年)9月4日に処罰されるが(参考:比企能員の変)・・・ 姉妹の大弐局は源実朝の養育係を務め、嫡男時長は、1219年(承久元年)、三寅(のちの四代将軍藤原(九条)頼経)の鎌倉下向の随兵を務めている。 1221年(承久3年)6月の承久の乱では父子8人で活躍した。 |
小笠原流流鏑馬は、小笠原氏の祖長清からの受け継がれた伝統技術。 長清は、源頼朝の弓馬礼法の師範となったと伝えられ、従兄弟の武田信光・信濃国の海野幸氏・望月重隆とともに弓馬四天王と称された。 小笠原流流鏑馬は、上賀茂神社と下鴨神社の例大祭(葵祭)・日光東照宮の例大祭・富士山本宮浅間大社の流鏑馬祭・鶴岡八幡宮の例大祭などで奉納されている。 |
1193年(建久4年)、富士裾野の巻狩りに先立って催された那須野の巻狩り。 このとき頼朝は、弓馬術に優れた腹心の者22名を選んで弓箭を帯びさせた。 他の者は一万騎もいたそうだが、弓箭を帯びず勢子の役をしたのだという。 22名に選ばれたのは、 北条義時 武田信光 小笠原長清 里見義成 小山朝光 下河辺行平 三浦義連 和田義盛 千葉成胤 榛谷重朝 諏方盛澄 藤沢清親 佐々木盛綱 渋谷高重 葛西清重 望月重義 梶原景季 工藤行光 仁田忠常 狩野宗茂 宇佐美助茂 土屋義清 |
1194年(建久5年)、源頼朝は東大寺の大仏殿の虚空蔵菩薩・如意輪観音と四天王像の造立を御家人に命じている。 多聞天を造立したのが小笠原長清。 従兄弟の武田信光は持国天を造立している。 |
※ | 現在の多聞天は長清の時代のものではない。 |
弓矢の道の習わし〜武田信光と小笠原長清〜 |
藍沢五卿神社は、承久の乱で「合戦の張本」とされ駿河国藍沢原で処刑された葉室宗行(藤原宗行)を祀るために創建された社。 のちに、葉室光親・源有雅・藤原範茂・一条信能が合祀されている。 小笠原長清は、源有雅を甲斐国で処刑している。 合戦張本の公卿 |
草鹿(くさじし)は、富士裾野の巻狩りで行われたのが起源。 度々鹿を射損じる家人。 そこで頼朝は、草を鹿の形に束ねさせ、それを射る稽古をさせたのだとか・・・。 毎年5月5日に鎌倉宮で奉納されている。 |
鶴岡八幡宮の除魔神事は、源頼朝が幕府において「御的始」・「御弓始」と称して行った武家の事始めが起源。 毎年1月5日に行われる。 |
三々九手挟式(さんざんくたばさみしき)は、古来、正月4日の「弓始め」のときに行われていた儀式。 毎年4月15日、源頼朝と北条政子が崇敬した伊豆山神社の例大祭で奉納されている。 |
城南宮は、流鏑馬発祥の地として知られる。 後鳥羽上皇は、城南流鏑馬のためと称して兵を集め、北条義時追討の院宣を発した(承久の乱)。 |
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