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金刺盛澄(かなさしのもりずみ)は、諏訪大社下社の大祝(おおほうり)。 諏訪盛澄とも呼ばれる。 1180年(治承4年)、木曽義仲が挙兵すると弟の手塚光盛とともに従ったが、平家追討の途中で御射山社の例大祭のため帰国。 1184年(寿永3年)1月20日、義仲が粟津の戦いで滅びると、源頼朝に捕えられ、梶原景時に預けられた。 処刑されるはずの盛澄だったが・・・ 『吾妻鏡』によると、 1187年(文治3年)8月15日、鶴岡八幡宮で催された流鏑馬に登場。 頼朝の前で弓馬の妙技をみせて罪を許されたのだという。 流鏑馬と諏訪盛澄の逸話 盛澄像が建てられているのは、手塚光盛が築いた霞ヶ城の跡。 諏訪大社下社の秋宮の隣接地にある。 |
※ | 金刺氏と木曽義仲は早くから結びついていたようだが、盛澄は義仲を婿としていたという説がある。 |
梶原塚は、金刺盛澄が梶原景時の変で駿河国清見ヶ関で討死した梶原景時に恩に報いるために建てたもの。 |
唐糸は金刺盛澄の弟手塚光盛の娘で、源頼朝を暗殺しようとして石牢(唐糸やぐら)に閉じ込められたが、それを救ったのが唐糸の娘の万寿だったのだという。 |
本宮 長野県諏訪市中洲宮山1 前宮 長野県茅野市宮川2030 春宮 長野県諏訪郡下諏訪町193 秋宮 長野県諏訪郡下諏訪町5828 |
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