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諏訪盛澄(金刺盛澄)は、諏訪大社下社の大祝。 1180年(治承4年)に源頼朝が挙兵したときは木曽義仲に従い、平家の家人でもあったことから捕らえられ梶原景時に預けられていた。 本来、処刑されるはずであったが、景時は、流鏑馬奉納でその妙技を頼朝に見せることによって盛澄の助命を考えたといわれている。 『吾妻鏡』も、そのときの事を「珍事あり」と記している。 景時に「盛澄の処罰を弓馬の技を見てからにして欲しい」と説得された頼朝は、盛澄に暴れ馬を与えたが、盛澄は見事全ての的を射抜いた。 さらに頼朝は、射抜かれた的の破片や的の串を射抜くように命じたが、これも見事に射抜いたため、盛澄はその罪を許された。 |
※ | 諏訪盛澄は、「唐糸伝説」の手塚太郎光盛の兄といわれている。 |
1187年(文治3年)8月15日、鶴岡八幡宮では放生会が催され、流鏑馬が奉納されました。 これが、鶴岡八幡宮例大祭の始まりといわれています。 『吾妻鏡』によれば・・・ 射手は五騎馬。 一番 射手 長江太郎義景 二番 射手 伊沢五郎信光 三番 射手 下河辺庄司行平 四番 射手 小山千法師丸 五番 射手 三浦平六義村 的にあたらない者はなく終了しました。 しかし、その後珍事が起こります。 諏訪大夫盛澄という者が召し出され、流鏑馬を射るよう命じられます。 盛澄は、流鏑馬の芸を極めた人物で、藤原秀郷の秘伝を伝えているといいます。 平家に仕えて京都に住んでいたときは、城南寺の流鏑馬などに出ていました。 そんな理由から、源頼朝のもとに参上するのが遅れたため、囚人として扱われていました。 しかし、流鏑馬の一流が途絶えてしまうことから処刑は免れ、長年、囚人として閉じこめられていたようです。 頼朝は、この日、盛澄を召し出します。 そして、流鏑馬を射るよう命じます。 盛澄は厩一の悪馬を賜り、騎乗します。 すると、厩の舎人(管理者)が、「この馬は、的の前で必ず右の方を走ります」と盛澄に告げたといいます。 馬はそのとおり一の的の前で右に寄りますが、盛澄は生来の武芸の達者ですので、押し直して的に命中させ、全ての的をはずしませんでした。 次に、小さな土器の皿を五寸の串に挟んだ的を3つ立てますが、これも全て射抜きます。 さらに、残った串を全て射抜くよう命じられます。 盛澄は、囚人として既に観念はしていましたが、心の中で諏訪大明神に祈念し、鶴岡八幡宮の瑞垣の方を拝み、神霊に仕えることができるならば今一度擁護してくれるよう祈ります。 その後、鏃を平らにねじり回して残された串を射ます。 そして、五寸の串の全てを射切り、観ていた者を感動させました。 頼朝は直ちに盛澄の罪を許すよう命じたといいます。 |
諏訪大社は、諏訪湖を挟んで上社と下社からなる神社。 古くより軍神として崇敬され、源頼朝の挙兵に呼応して甲斐国で挙兵した武田信義も戦勝を祈願した。 戦国期には武田信玄が崇敬し、「南無諏訪南宮法性上下大明神」の軍旗を掲げ、諏訪法性兜で出陣したのだと伝えられる。 大祝(おおほうり)は、諏訪大社の上社・下社の頂点にいた神職。 上社は諏訪氏・下社が金刺氏が務め、中世には大祝を中心とする武士団が形成されていた。 |
梶原塚は、盛澄が梶原景時の変で駿河国清見ヶ関で討死した梶原景時に恩に報いるために建てたもの。 |
鶴岡八幡宮例大祭で奉納される流鏑馬は、1187年(文治3年)8月15日、源頼朝が放生会を催した際に奉納したのがその起源だという |
鎌倉まつり |
例大祭 |
鶴岡八幡宮では、4月の鎌倉まつりで武田流流鏑馬が、9月の例大祭で小笠原流流鏑馬が奉仕される。 |
2022年2月8日、鎌倉市観光協会の方から本ページの記載についてお電話をいただきました。 鎌倉まつりの開催時期・期間については、4月の第2日曜から第3日曜が恒例となっていましたが、そういった決まりはないそうですので、本ページは参考としてご覧いただき、開催の有無・開催時期・期間等につきましては、鎌倉市観光協会にお問い合わせ願います。 |
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