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城南宮は、平安京に遷都された794年(延暦13年)の創建と伝えられる。 平安京の南にあることから城南大神と崇められ、白河天皇や鳥羽上皇が鳥羽離宮(城南離宮)を造営してからは、鎮守社として崇められた。 9月の祭礼では神輿行列や流鏑馬や競馬が行われ、現在も城南祭として受け継がれている。 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇は、北条義時討伐のため城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を募り承久の乱を起こした。 乱後、後鳥羽上皇は隠岐に流され、流鏑馬は途絶えたが、2005年(平成17年)に復活している。 室町時代には、応仁の乱をはじめとする戦乱で荒廃するが、江戸時代に復興された。 1861年(文久元年)、江戸幕府十四代将軍の徳川家茂の正室となった皇女和宮は、江戸下向の際、道中の安全を祈願。 1863年(文久3年)には、孝明天皇が攘夷祈願を行ったのだという。 1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩が陣を構えて主戦場となった。 |
八千矛神 (やちほこのかみ) 息長帯日売尊 (おきながたらしひめのみこと) 国常立尊 (くにのとこたちのみこと) |
※ | 八千矛神の別の神名は大国主命(おおくにぬしのみこと) |
※ | 息長帯日売尊の別の神名は神功皇后(じんぐうこうごう) |
神苑「楽水苑」は、「春の山」「 平安の庭」「 室町の庭」「 桃山の庭」 「離宮の庭」の5つのエリアで構成されている庭園。 紫式部の『源氏物語』に描かれた花や木々が80余種あることから「源氏物語花の庭」と呼ばれている。 春(4月29日)・秋(11月3日)には、「上巳の節句」で行われていた「曲水の宴」が催される。 曲水の宴は、奈良・平安時代に流行った庭園の曲水に酒を満たした盃を浮かべて歌を詠む遊興で、藤原道長など貴族の自邸でも行われていた。 |
流鏑馬は、疾走する馬上から鏑矢を放ち的を射る弓術。 藤原宗忠の日記『中右記』によると、1096年(永長元年)4月29日と5月2日に白河上皇が鳥羽離宮の馬場殿で流鏑馬を観覧したのだという。 これが流鏑馬史料の初見。 その後、流鏑馬は、城南宮(城南寺明神)の祭礼行事として定着。 新日吉社の小五月会でも後白河上皇や後鳥羽上皇が御幸して流鏑馬が行なわれていた。 流鏑馬を北面の武士に勤めさせることで院側近の勢力結集という目的があったのだと考えられ、のちに源頼朝が鶴岡八幡宮の放生会で始めた流鏑馬も軍事力の結集が目的であったのだという。 『承久記』によると・・・ 後鳥羽上皇は1221年(承久3年)5月14日、鳥羽の城南院(城南寺)の流鏑馬のためと称して、在京の武士・畿内の兵士らを高陽院殿に集め、その数は一千五百騎余りになったのだとか。 翌日、後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣を発している(承久の乱)。 |
高陽院は、後鳥羽上皇の院御所。 ここに兵が集められ、義時追討の院宣が発せられた。 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 |
鳥羽伏見の戦いは、京都南郊の鳥羽・伏見で行われた新政府軍と旧幕府軍との戦い。 1868年(慶応4年)1月2日、大坂城の徳川慶喜は京都へ向け一万五千の軍勢を北上させた。 新政府軍も薩摩・長州両藩兵ら四千五百が出陣。 城南宮一帯では五百数十名の薩摩兵が布陣。 1月3日、両軍が衝突。 城南宮参道に置かれた薩摩藩の大砲が轟いて始まったのだという。 戦いは、数では三分の一にも満たない新政府軍が1日で旧幕府軍を退却させている。 1月4日には仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任命され、錦の御旗が翻り、薩摩・長州の士気が高まった。 東寺には本営が置かれ、1月5日、嘉彰親王が本営に入った。 鳥羽伏見の戦いが新政府軍の勝利に終わると、1月6日、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸へ戻っている。 |
仁和寺 |
東寺 |
征討大将軍に任ぜられた小松宮彰仁親王は、仁和寺第三十世門跡。 鳥羽伏見の戦いの前年に還俗を命ぜられ、仁和寺宮嘉彰親王を名乗った。 |
京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町7
京都市営地下鉄烏丸線・近鉄京都線「竹田駅」から徒歩15分 |
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