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「除魔神事」は、源頼朝が幕府において「御的始」「御弓始」と称して行った武家の事始めを起源としています。 弓矢には古来より魔を退ける力があるとされています。 舞殿で神職による祭儀が行われた後、小笠原弓馬術礼法・鎌倉古式弓道保存会の方々のご奉仕により神事が執り行われます。 参考までに、鶴岡八幡宮の「破魔矢」も、このような信仰と伝統に基づくものです。 |
〜蟇目の儀〜 |
上の写真は「蟇目の儀」(ひきめのぎ)の様子。 矢の先の鏑が蟇蛙に似ていることから蟇目と呼ばれるのだとか。 矢が放たれると「ヒュー」と云う音が発せられ、その音が魔性を退散させるのだといいます。 |
『吾妻鏡』の記録では、1180年(治承4年)12月20日、源頼朝の新造御所(大倉御所)での「椀飯」(おうばん)の折、酒宴の余興に「御弓始の儀」が催されました。 これが「御弓始」の最初の記録となります。 ※「椀飯」とは、御家人が頼朝を饗応する行事のこと。 |
一番 | 下河辺行平 対 愛甲季隆 |
二番 | 橘公忠 対 橘公成 |
三番 | 和田義盛 対 工藤行光 |
的は直径五尺二寸(1.5メートル)で、裏には「鬼」という字が書かれていますが、「鬼」の字は角が除かれています。 的は、この「鬼」という字が逆さになるように設置されるようです。 「鬼」という字を封じ込めた大的を射ることから「大的式」とも呼ばれています。 |
蟇目の儀が終わると、烏帽子、直垂姿の射手6人が2人ずつ矢を射ます。 |
角を折られ逆さに吊るされた鬼を射る!〜鶴岡八幡宮:除魔神事〜2020/01/05 |
京都三大祭の葵祭では、5月5日に下鴨神社で葵祭の安全を祈願する歩射神事が行われる。 歩射神事では、「蟇目式」(ひきめしき)・「屋越式」(やごししき)・「大的式」(おおまとしき)」・「百々手式」(ももてしき)が行われる。 この四式を「鳴弦蟇目神事」(めいげんひきめしんじ)と呼ぶらしい。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 下河辺行平は、源頼朝からは「日本無双の弓取」と称賛された武将。 1189年(文治5年)正月3日、正月椀飯の宴会中に弓始め式を行うこととした頼朝。 射手に指名された行平は、弓場に進み出て蹲踞(そんきょ)して片肌を脱ぎました。 頼朝が行平と競う者を募ると、修理進季長(しゅりのじょうすえなが)が進み出て行平の後ろに蹲踞しましたが・・・ 行平は先に進もうとしません。 行平の不満そうな様子を見て取った頼朝は、榛谷重朝を指名します。 席を立った重朝が行平と季長の間に蹲踞すると、行平は前へ進み出て弓を射はじめました。 季長は・・・ 恥ずかしくて元の席に戻らず逃げてしまったのだとか・・・。 それから6日後の正月9日、頼朝の嫡男・頼家の小御所でも弓始めがありました。 一番 下河辺行平 対 曽我祐信 二番 結城朝光 対 和田宗実 三番 藤沢清親 対 橘公成 四番 三浦義連 対 海野幸氏 五番 榛谷重朝 対 和田義盛 御所での弓始めの儀式は、この前年の正月6日や1180年(治承4年)12月12日にも記録されていますが、幕府の行事として始められたのは、1189年(文治5年)からなのかもしれません。 |
『吾妻鏡』によれば、1212年(建暦元年)1月11日に行われた御弓始の射手に選ばれた小国頼継は、弓を持っていませんでした。 そのため、諸国から進上された荒木の弓を賜って15度射ますが、全て弓弦を切らしてしまいます。 将軍源実朝は、弦麻のために越前国稲津保を与えたといいます。 頼継の力が強すぎて、持ちこたえられる弓がなかったという伝説です。 |
弓馬術礼法小笠原流は、小笠原長清を祖とする小笠原家に伝えられた武家礼法。 小笠原流流鏑馬は、上賀茂神社と下鴨神社の例大祭(葵祭)・日光東照宮の例大祭・富士山本宮浅間大社の流鏑馬祭・鶴岡八幡宮の例大祭などで奉納されている。 |
草鹿(くさじし)は、富士裾野の巻狩りで行われたのが起源。 巻刈りで度々鹿を射損じる家人。 そこで頼朝は、草を鹿の形に束ねさせ、それを射る稽古をさせたのだとか・・・。 毎年5月5日に鎌倉宮で奉納されている。 |
三々九手挟式(さんざんくたばさみしき)も正月の「弓始め」のときに行われていた儀式。 毎年4月15日、源頼朝と北条政子が崇敬した伊豆山神社の例大祭で奉納されています。 |
鎌倉市雪ノ下2−1−31 0467(22)0315 鎌倉駅東口より徒歩10分 |
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