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「施餓鬼会」とは、餓鬼道で苦しむ一切の衆生に食物を与えて供養する法会です。 建長寺では、毎年7月15日、三門(山門)で「三門施餓鬼会」と梶原景時の亡霊を弔うための「梶原施餓鬼会」が行われます(午前8時から)。 |
建長寺の「三門梶原施餓鬼会」は、梶原景時の亡霊を弔うために行われます。 建長寺が開かれて間もない7月15日、三門(山門)では通常どおりの施餓鬼会が行われていました。 施餓鬼会が終了した直後、武者一騎が駆けつけます。 しかし、施餓鬼会が終わったのを見た武者は残念そうに引き上げていったそうです。 大覚禅師(蘭渓道隆)は、すぐに傍らにいた僧にその武者を追わせ、もう一度施餓鬼会を執り行いました。 施餓鬼会が終わり大覚禅師が武者に問うたところ、「われは梶原景時の霊である」と答えて感謝の言葉を述べながら姿を消したといいます。 それ以来、建長寺では、7月15日の午前中に「三門施餓鬼」を、午後に「梶原施餓鬼」を執り行ってきたといいます。 |
今日では、午前8時に国宝の梵鐘が撞かれ、本山、近在末寺の僧侶が集まって、「三門施餓鬼」と「梶原施餓鬼」が続けて行われています。 「梶原施餓鬼会」で唱えられるのは、蘭渓道隆が宋より持参したという梵語の『般若心経』(梵語心経)。 |
梶原景時は、1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると平家方につきますが、石橋山の戦いで敗れ山中に逃げた頼朝を助けたといわれ、鎌倉幕府では侍所次官の地位に就きました。 湯河原町のしとどの窟は、景時が頼朝の見逃した岩窟と伝えられています。 |
石橋山古戦場 (小田原市) |
しとどの窟 (湯河原町) |
頼朝の下で活躍する一方で、讒言者として恐れられた景時。 上総介広常や源義経も景時の讒言によって命を奪われたのだとも・・・。 |
伝説!逆櫓の論争 義経と景時の先陣をめぐる争い |
1198年(建久9年)12月、相模川の橋供養に出掛けた頼朝は、その帰路落馬し、翌年正月13日に亡くなりました。 最大の後ろ盾を失った景時は、結城朝光を讒言したとして御家人66人の糾弾を受けることになります。 本当に讒言があったのかどうか、他に理由があるのか、といったことは不明ですが、この事件によって景時は鎌倉を追放されてしまいます。 そして、1200年(正治2年)正月20日、上洛途中の駿河国で討死。 頼朝が亡くなってから、ちょうど1年目のことでした。 |
梶原山の碑に刻まれている「鎌倉本體の武士 梶原景時終焉之地」は、建長寺管長の筆。 |
梶原景時の墓 (鎌倉) |
梶原景時の墓 (東京大田区) |
仏教の世界では、人は死ぬと、その生前の行いによって、6つの世界に振り分けられるといわれています。 その世界とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の6つの道です。 このうち「餓鬼」は、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい、餓えと渇きに悩まされるといわれています。 「施餓鬼」は、その「餓鬼」を救うために行われます。 |
鎌倉市山ノ内8 0467(22)0981 JR北鎌倉駅より徒歩15分 |
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