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1159年(平治元年)の平治の乱に敗れ、翌年、伊豆国の蛭ヶ小島に流された源頼朝は、20年後の1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵を果たした。 伊豆国目代の山木兼隆を討ち取った後、相模国へと軍を進め、8月23日には石橋山に布陣するが・・・ 翌24日の明け方には大庭景親らの平氏軍に敗れ、土肥実平の手引きで土肥郷椙山の山中に逃れた。 土肥郷は、現在の湯河原町。 |
『吾妻鏡」によると・・・ 石橋山で敗れた源頼朝は、8月24日、土肥郷椙山の堀口に布陣。 大庭景親の軍兵もそれを追ってきた。 その中には、のちに源頼朝の片腕となる梶原景時もいた。 景時は、頼朝の所在を知っていながら、「この山には人はいない」といって、大庭景親の手を曳いて傍らの山に上っていったのだとか。 この間、頼朝は髷の中に入れていた守り本尊の「正(聖)観音像」を岩窟の中に置いた。 その理由は・・・ 「景親ら平氏に首を討たれるときに、この正観音像を見られると、源氏の将軍らくしくないと非難される」 ということだったらしい。 『吾妻鏡』に記されているこの岩窟が「しとどの窟」だと伝えられている。 |
梶原景時の菩提寺、東京大田区の萬福寺の「梶原景時由緒絵馬」。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 源頼朝は、8月25日、弁当を届けにやってきた箱根権現の永実(別当行実の弟)の案内で箱根に向かい永実邸に逃れている。 しかし、行実と永実の弟智藏房良暹が、兄たちを裏切り、僧兵を集めて頼朝を襲おうとしていることが判明すると、再び土肥郷へ逃れた。 8月28日には真鶴から船出し、安房へと渡っている(参考:源頼朝船出の浜)。 |
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『吾妻鏡』によると・・・ 源頼朝が岩窟に置いてきた観音像は、正観音像は京都清水寺から授かったもの。 この年の12月25日、伊豆山の専光房良暹の弟子僧が見つけて、鎌倉の頼朝のもとへ届けられている。 そして、1189年(文治5年)に建立した持仏堂(のちの法華堂)の本尊として祀られた(参考:源頼朝の墓)。 専光房良暹は、石橋山の戦いで頼朝を助けた梶原景時の兄という説がある。 |
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石橋山で敗れた源頼朝を椙山に導いたのは、土肥郷を領していた土肥実平。 言い伝えられている話では、「しとどの窟」に潜む頼朝に食糧を届けたのは実平の妻だったのだとか。 『源平盛衰記』によると・・・ 椙山から土肥の真鶴に向かう折、実平の見たものは、自分の館が伊東祐親の手勢によって焼き払われている光景だった。 しかし実平は落胆することなく、「我が家は何度も焼かば焼け」と舞ってみせたという。 その舞が、今日でも伝えられている「焼亡(じょうもう)の舞」なのだという。 |
箱根伊豆地方は、関東山伏の発祥の地なのだという。 地蔵信仰・観音信仰・大師信仰の遺跡も多数残されている。 土肥実平には、山伏修験の経験があったといわれている。 |
岩海岸は、源頼朝主従が安房へ向かって船出したという浜。 |
![]() (真鶴町) |
![]() (鋸南町) |
鵐窟は、源頼朝主従が真鶴で隠れ潜んでいたという岩屋。 真鶴から船出した頼朝は、安房国平北群猟島に上陸したのだと伝えられている。 |
JR湯河原駅から箱根登山バス「元箱根」行き「しとどのいわや」下車。 徒歩20分。 (バスの本数が少ないのでよく調べてからお出掛けください。) |
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