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1180年(治承4年)、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、土肥実平の手引きによって土肥山中で数日間を過ごし、海路安房へ渡るため真鶴を目指していた。 一方、頼朝を捜し出すことができず、伊東へ引き上げる途中の伊東祐親は土肥館に火を放った。 それを山上から見ていた実平は、「我が家は何度も焼けば焼け」と謡い舞い、頼朝はその舞に感じ入ったという。 この舞が「焼亡の舞」(じょうもうのまい)。 「焼亡」とは火事のこと。 山伏修験の心得があった実平は、燃え盛る炎を護摩の火と考え、修行成就の浄火として見て「延年」を舞ったのだという。 「延年」は平安時代からの芸能で、当時、箱根権現や三島社で演じられていたのだという。 奥州平泉の中尊寺や毛越寺にも伝承され、「毛越寺の延年」は国の重要無形民俗文化財となっている。 |
謡坂の碑 (真鶴町・岩海岸) |
土肥実平 (JR湯河原駅) |
土肥に三つの光あり 第一には八幡大菩薩我君を守り給う和光の光と覚えたり 第二には我君平家を討ち亡ぼし一天四海を照らし給う光なり 第三には実平より始めて君に志ある人々の御恩によりて子孫繁昌の光なり 嬉しや水水鳴るは瀧の水 悦び開けて照らしたる土肥の光の貴さよ 我家は何度も焼かば焼け 君が世にお出になったら広い土肥の椙山に茂る木を伐って邸など何度でも造りかえる 君を始めて万歳楽我等も共に万歳楽 |
土肥会が主催する4月の第一日曜日の土肥祭では「焼亡の舞」が再現される。 9月に鎌倉の鶴岡八幡宮で行われる例大祭でも、その最終日の流鏑馬神事の後に土肥会による「焼亡の舞」が演じられます。 |
源頼朝が石橋山に出陣する際、戦勝を祈願したという神社。 |
神奈川県足柄下郡湯河原町宮下359−1 JR湯河原駅から徒歩15分 |
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