源頼朝との和議によって後方の憂いを取り除いた木曽義仲は、北陸道を京都へ進軍します。 1183年(寿永2年)春、平家は北陸の義仲を攻めますが、義仲は叔父の義広、行家とともにこれを迎え撃ち、5月11日、倶利伽羅峠の夜戦で平家軍を潰滅させます。 勢いに乗った義仲は、北陸道を攻め上り、6月には近江国に入ります。 近国の反平家勢力らの動きも活発になり、京の平家包囲網が巡らされました。 7月25日、耐えきれなくなった平家一門は、6歳の安徳天皇と三種の神器を奉じて六波羅に火をかけ、都落ちします そして、7月28日、入れ替わるように義仲らが都に入ります。 しかし、飢饉によって食料が不足している都に、義仲らの大量の軍勢が入ったことで、徴発・掠奪・暴行・青田刈りが頻発・横行するようになります。 そのため、都の人心は義仲から離れていきます。 そもそも、義仲の軍は、寄せ集めの軍隊であって、何の統制もとれていなかったといいますし、義仲自身も統制できるだけの知識・教養に欠けていたようです。 さらに、義仲は皇位継承問題に介入し、以仁王の第一王子北陸宮を即位させようとして後白河法皇とも対立するようになります。 |
※ | 『平家物語』によると、入京した義仲は8月10日に左馬頭、越後守となり、朝日将軍の称号を得たのだといいます。 |
※ | 北陸宮は、以仁王が討たれた後、越前国へ逃れ、義仲が挙兵するとその庇護をうけていました。 |
このような中、後白河法皇は頼朝に上洛をうながします。 これに対して頼朝は、奥州の藤原秀衡の脅威と畿内の飢饉を理由に上洛を断り続ける一方で、「東海・東山・北陸三道の国衙領・荘園をもとのように国司・本所に返還せよ」という勅令発布の要請しています。 そして、1183年(寿永2年)10月14日、 「東海・東山両道の国衙領・荘園の年貢は国司・本所のもとに進上せよ。従わぬ場合は頼朝に連絡して命令を実行させよ」 という内容の宣旨が交付されました(寿永二年十月宣旨)。 この宣旨によって、東国における頼朝の支配権が承認されました(これより前の10月9日、頼朝は従五位下の位に復帰しています。)。 これまで、頼朝は「養和」及び「寿永」の年号を使用してきませんでしたが、十月宣旨の発布によって、「寿永」の年号を使い始めています。 |
牛天神は、頼朝が東国支配の願いを叶えてくれた事に感謝して創建した神社だと伝えられています。 |
木曽義仲に攻められた平家一門は、六波羅を焼き払って京を落ちます。 |
三十三間堂は、後白河法皇の院御所「法住寺殿」の一画にありました。 |
この年、頼朝は走湯山(伊豆山神社)に相模国長墓郷を寄進。 小田原市永塚にある雷電神社は、その際に鎮守として創建されたようです。 伊豆山神社には「走湯山上常行堂への寄進状写」が残されています。 |
寄進状の花押は、頼朝の異母弟阿野全成のものである可能性があるらしい。 |
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