1183年(寿永2年)12月22日、源頼朝は上総広常に謀反の疑いがあるとして、梶原景時に暗殺を命じます。 慈円の『愚管抄』によると、双六に興じている最中に謀殺したということです。 |
梶原景時が上総広常を討った後、太刀を洗ったと伝えられる水(鎌倉五名水)。 |
上総広常の墓と伝えられる五輪塔。 |
※ | 上総広常の屋敷は、鎌倉七口の一つ朝夷奈切通付近にあったと伝えらています。 |
広常が暗殺された翌1184年(寿永3年)正月17日、上総一宮から、広常が納めた「小桜皮威(こざくらかわおどし)の鎧」が頼朝のもとに届きます。 その鎧には、一通の書状が結びつけてありました。 書状には、 |
一 | 三箇年のうちに、神田二十町を寄進すること。 |
一 | 三箇年のうちに、神殿の造営をすること。 |
一 | 三箇年のうちに、万度の流鏑馬を射ること。 |
という計画が記され、これらの事を行うのは「頼朝の祈願成就と東国泰平のためのものであること」が記されていたといいます。 この願文によって、広常に謀反の心がなかったことが明らかとなり、頼朝は広常を殺してしまったことを悔やんだといいます。 そして、捕らえられていた広常の弟天羽直胤、相馬常清らが、広常の忠義に免じて許されました。 しかし、没収された所領については、返還されることはなかったといいます。 ただ、広常の一族の赦免は「当初から予定されていたことだ」という説もあり、のちに上洛した頼朝は、後白河法皇から広常を殺した理由について問われ、 「広常は最大の功臣の一人だったが、天皇に対し謀反心を持っていたので殺した」 と述べています。 |
上総広常は、源頼朝が鎌倉入りする際に2万騎を率いて参陣した武将。 |
上総一宮の玉前神社の境内には、「上総権介平広常公顕彰碑」が建てられている。 |
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