|
梶原大刀洗水は、朝夷奈切通の岩肌から湧き出る鎌倉五名水の一つ。 梶原景時が上総介広常を討った後、この湧き水で太刀の血のりを洗い流したという伝説が残されている。 広常は、源頼朝の挙兵の際に2万騎の兵を率いてに従った武将。 1183年(寿永2年)、頼朝の命を受けた梶原景時に暗殺された。 景時が広常の屋敷に赴き、酒のもてなしを受け、二人で双六に興じているときに、景時が広常に襲いかかって首をとったといわれている。 |
鎌倉五名水 鎌倉五名水MAP |
2万騎で参陣した上総広常 上総広常の暗殺 |
広常暗殺後、広常が生前に上総一の宮に奉納した鎧の中から、源頼朝の武運長久を祈る願文がみつかっている。 後悔した頼朝は、千葉常胤に身柄を預けていた広常の一族を赦免したという。 ただし、頼朝は、のちに後白河法皇と面談した際、「朝廷に対する忠誠心から殺害した」と述べている。 広常は、武家の世を築こうとしているのに、日頃、朝廷との交渉に努めていた頼朝に対して不満をもっていたことは事実のようである。 |
源頼朝と上総介広常(okadoのブログ) 暗殺された上総介広常(okadoのブログ) 源頼朝のための願文・・・上総介広常(okadoのブログ) |
朝夷奈切通付近の「屋敷田」と呼ばれる所に上総介広常の屋敷があったと伝えられている。 1180年(治承4年)12月12日、新造の御所が完成した際、源頼朝は広常邸から和田義盛の先導で新亭に向かっている。 広常は、頼朝の父義朝にも仕え、その時代にはすでに鎌倉に屋敷を構えており、頼朝が滞在したとする屋敷と同じであったと考えられる。 広常を暗殺した梶原景時の屋敷は、明王院近くにあったとされている(参考:梶原景時邸跡)。 |
新亭完成・武家の都の誕生 東国の主君「鎌倉殿」 |
横浜市金沢区の朝比奈のバス通りにある五輪塔(「上総介塔」)は、上総介広常の墓ともいわれている。 |
玉前神社は上総国の一之宮。 広常は「頼朝の祈願成就と東国泰平のため」の願文を奉納していたのだという。 |
鎌倉七口の一つ朝夷奈切通は、鎌倉と金沢(六浦)を結ぶ切通。 三代執権北条泰時によって開かれたこの道は「塩の道」と呼ばれた。 |
大きい地図を見るには・・・ 右上のフルスクリーンをクリック。 |
|