1180年(治承4年)10月7日、鎌倉入りを果たした源頼朝は、2日後の9日には、大庭景義を奉行として御所の造営にとりかかります。 当座の御所としては、山ノ内の首藤兼道邸が移築されていましたが、12月12日、大倉郷に新造の御所が完成しました。 この新亭がのちに大倉幕府と呼ばれるようになります。 |
1180年(治承4年)12月12日、上総広常邸を発った頼朝は、和田義盛の先導で新亭に向かいます。 政子の駕には加々美長清、毛呂季光が付き添い、北条時政、北条義時、足利義兼、千葉常胤、安達盛長、土肥実平、岡崎義実などが供奉し、畠山重忠が最後尾を務めたといいます。 新亭に入った頼朝は寝殿に上がり、御家人は侍所に対座します。 中央に位置するのは、11月17日に侍所別当に就任したばかりの和田義盛でした。 この日、新亭に出仕した御家人は、311人と伝えられ、頼朝は「鎌倉の主」に推戴されています。 東国の支配者「鎌倉殿」の誕生です。 「御移徒の儀」は、頼朝が鎌倉で行った最初の公式行事。 この儀式によって「武家による新たな社会秩序が鎌倉の地に出来上がった」ということが、内外に宣伝されました。 |
『吾妻鏡』によれば、鎌倉には頼朝の御所が完成しただけでなく、御家人の宿館も構えられたことが記されています。 各々の領地に館を構えている御家人が、鎌倉にも宿館を構えて頼朝に奉公するということは、つまり、鎌倉に「武家の都」が誕生したということなのかもしれません。 12月20日には、三浦義澄が頼朝を饗応する「椀飯」を献上し、「御弓始」が執り行われました。 同日、「御行始」も行われ、頼朝は、甘縄の安達盛長邸へ入御しています。 |
※ | 御弓始は、武家の事始めの儀式。 鶴岡八幡宮の正月行事「除魔神事」は、頼朝が行なった御弓始を起源としています。 |
※ | 御行始は、新しい御所へ移転後、はじめて他所へ行くこと。 |
石橋山で敗れた頼朝が武家の都を創ることができた理由の一つに飢饉があった! |
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