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阿野全成(あのぜんじょう)は、源義朝の八男。 母は常盤御前。 頼朝の異母弟。 義経の同母兄。 1159年(平治元年)の平治の乱後、出家して醍醐寺に入っていたが、1180年(治承4年)8月17日、源頼朝が挙兵すると、関東へ下り、佐々木兄弟の助けを受けて渋谷重国のもとに匿われていた。 あまり知られていないが、 頼朝の挙兵時には義経より先に駆けつけ、10月には頼朝とともに鎌倉入りを果たし、11月19日には、武蔵国の長尾寺を与えられている。 その後、北条政子の妹保子(阿波局)を妻とし、駿河国阿野庄を与えられ「阿野」を名乗った。 保子が頼朝の二男実朝の乳母となったことから、実朝の養育係となりその地位を築いていったが・・・ 頼朝死後の1203年(建仁3年)5月19日、北条時政らの将軍実朝擁立の企てに加わったことで、将軍頼家が派遣した武田信光によって捕らえられてしまう。 宇都宮朝業に預けられた全成は、5月25日、常陸国へ流され、6月23日、下野国で八田知家に誅殺された。 三男で京都で修行中だった頼全(よりまさ・らいぜん)も7月16日に延年寺で誅殺されている。 頼家は、全成の妻阿波局の引き渡しも求めたが北条政子が拒否したのだという。 北条時政は、この年の9月、将軍頼家の外戚比企能員を暗殺し、一族を滅ぼした。 この事件によって頼家は修禅寺に流されている。 |
※ | 全成を預けられた宇都宮朝業は、北条時政の娘婿で宇都宮氏五代当主の宇都宮頼綱の弟。 |
※ | 全成を誅殺した八田知家は、宇都宮氏二代当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男。 |
※ | 全成が流された常陸国は、八田知家築城といわれる小田城近辺だったのかも・・・ |
1159年(平治元年)、父義朝が平清盛に敗れ、翌年、尾張国で暗殺されると、全成は醍醐寺で出家。 『吾妻鏡』には醍醐禅師と記され、その荒くれぶりから「悪禅師」とも呼ばれていたのだという。 |
千葉県習志野市の鷺沼城址は、頼朝と全成が対面した場所と伝えられている。 |
川崎市の妙楽寺は、頼朝が鎌倉入りした直後に全成に与えた長尾寺と関係が深いと指摘されている。 |
伊豆山神社の古文書「走湯山上常行堂への寄進状」に書かれている花押は、全成のものという可能性があるらしい。 |
栃木県益子町の大六天の森にある五輪塔は、全成の墓と伝えられている。 益子は、下野宇都宮氏三代当主で全成を処刑した八田知家の兄・朝綱の隠棲地。 |
静岡県沼津市の大泉寺には、全成と嫡子時元のものと伝わる墓がある。 時元は 1219年(建保7年)1月27日に三代将軍源実朝が暗殺されると反北条の兵を挙げたが、北条義時が派遣した軍に攻められ自刃した。 後醍醐天皇に仕えた阿野廉子は、全成の子孫と伝えられている。 新田義貞に奉じられて北陸に下った恒良親王や南朝二代天皇の後村上天皇は廉子が産んだ。 |
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