渋谷重国は、相模国高座郡渋谷庄(現在の藤沢市、綾瀬市、大和市にまたがる地域)を領していた武将。 重国は、平治の乱後、奥州へ逃れようとしていた近江源氏・佐々木秀義とその子を引き止め、娘を秀義に嫁がせて婿としています。 以後20年に亘って、秀義父子は重国の保護を受けていたといいます。 |
※ | 近江源氏は、源雅信(または敦実親王)を祖とする宇多源氏。 |
早川城址は渋谷重国の館跡。 渋谷氏は秩父氏の一族で、重国の父河崎重家が武蔵国から移ってきたこに始まるのだといいます。 東京渋谷区にある金王八幡宮は、重国の祖父河崎基家の創建と伝えられています。 |
嫡男:定綱 |
母は源為義(頼朝の祖父)の娘。 山木館襲撃では、山木兼隆の後見役だった堤信遠を討ち取っています。 |
次男:経高 |
母は宇都宮氏の娘。 山木館襲撃では、兄定綱とともに堤信遠を攻め、源頼朝と平氏との戦いの一番矢を放ちました。 |
三男:盛綱 |
母は源為義の娘。 頼朝には1166年(仁安元年)から仕えています(16歳)。 山木館襲撃では、加藤景廉とともに山木兼隆を討ち取りました。 |
四男:高綱 |
母は源為義の娘。 山木館襲撃では、兄定綱・経高とともに堤信遠を討ち取ります。 石橋山での敗戦後、椙山の堀口に陣を布いた頼朝をよく守りました。 のちの「宇治川の戦いでの先陣争い」で知られている武将です(参考:宇治川先陣の碑)。 |
鳥山八幡宮 (横浜市港北区) |
三会寺 (横浜市港北区) |
頼朝が挙兵する前の8月9日、大庭景親に呼び出された秀義は、「源頼朝討伐の密事」を聞きます。 翌日、秀義は、その話を頼朝に伝えるため、嫡男定綱を遣わしています。 11日、定綱は頼朝のもとに到着して景親の密事を報告し、14日朝には、甲冑を用意するため、渋谷庄への帰路についています。 このとき頼朝は、定綱に「16日には戻って来るように」と伝えるとともに、渋谷重国に対して手紙を書いたといいます。 |
石橋山の戦い後の8月26日、大庭景親は、渋谷重国のもとへ行き、「佐々木四兄弟は、頼朝に属し平家に弓を引いた。その罪は許されることではない。佐々木四兄弟を捜しているが、妻子らを捕らえるべきだ」
と命令します。 しかし、重国が 「佐々木四兄弟には、年来の親しい間柄によって扶持を与えてきた。 しかし、彼らが旧恩のため、臣下として頼朝に仕えることを禁ずることはできない。重国は、貴殿の招集に参じ、外孫佐々木五郎義清を連れて石橋山に駆けつけた。その功を考えず、定綱以下の妻子を召し捕れとの命令であるが、本懐ではない」 と拒否すると、景親は、この理に伏して立ち去ったといいます。 その晩、定綱・盛綱・高綱の3人が、頼朝の異母弟全成を連れて渋谷館へ帰ってきました。 3人は深山を出たところで全成に出会ったのだといいます。 重国は喜びますが、世間の憚りを気遣って、倉庫に招き、食事と酒を勧めました。 その間、重国が「経高は討ち取られたのか?」と尋ねると、定綱が「存念があるといって一緒に来ませんでした」と答えます。 すると重国は、「一度だけ、頼朝様に参じるのを止めたことがある。 しかし、それを聞かず参じてしまった。戦いに負けてしまった今、重国に会うことを恥じているのかもしれない」 と言って、部下に行方を捜させたといいます。 この話を聞いた人は、渋谷重国は情けがあると感心したということです。 のちに重国は、頼朝に臣従して所領を安堵してもらっています。 |
沙沙貴神社、近江国蒲生郡佐々木荘を本拠とした佐々木氏の氏神。 |
戦国期に石田三成の居城となったことで知られる佐和山城は、佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりといわれています。 |
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