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佐和山城(さわやまじょう)は、近江国の守護だった佐々木定綱の六男・佐保時綱が建久年間(1190- 1198)に築いた砦が始まりといわれる。 室町時代後期には、佐々木氏から分かれた六角氏に支配され、応仁の乱後には城が築かれたのだという。 戦国時代に入ると浅井氏の支配となるが、1573年(天正元年)、浅井長政が織田信長に討たれると丹羽長秀が入城。 越前国の浅倉義景討伐の拠点となった。 城主となった長秀は、1576年(天正4年)から始まる安土城の総奉行を務めている。 1582年(天正10年)、明智光秀の謀反で信長が本能寺で倒れると(本能寺の変)、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の支配となる。 そして、1591年(天正19年)、石田三成の城に(時期については諸説ある)。 三成は荒廃していた佐和山城の大改築を行い、山頂には五層(三層とも)の天守(天主)が建てられたのだという。 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで三成が徳川家康に敗れると小早川秀秋に攻められて落城。 その後は、徳川四天王のひとり井伊直政が入城。 1602年(慶長7年)、直政が死去すると嫡男の直継が継承するが、1606年(慶長11年)に新たに築かれた彦根城へ移ったことで佐和山城は廃城となる。 彦根城には佐和山城の築材も使用されたのだという。 |
沙沙貴神社は近江源氏と呼ばれた佐々木氏が信仰した神社。 近江国蒲生郡佐々木荘を本拠とした佐々木秀義の子定綱・経高・盛綱・高綱は、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵に参じ、源平の合戦後は定綱が近江国守護となっている。 |
1603年(慶長8年)から築城が開始された彦根城は、1622年(元和8年)に完成。 以後、彦根は1871年(明治4年)の廃藩置県まで井伊氏35万石の城下町として繁栄することとなる。 |
石田三成が豊臣秀吉と出会ったのは、秀吉が長浜城主だった頃なのだという。 |
佐和山の麓にある曹洞宗の清凉寺は、1603年(慶長8年)に創建された井伊家の菩提寺。 寺名は、前年に死去した井伊直政の戒名「祥壽院殿清涼泰安大居士」に因むもの。 |
臨済宗妙心寺派の龍潭寺(りょうたんじ)も佐和山の麓にある寺院。 井伊氏の発祥地である遠江国井伊谷にあった寺で、井伊直政が佐和山城主となった際に移築されたのだという。 |
龍潭寺の参道脇にある井伊神社は、井伊氏初代の共保の七百五十回忌にあたり、井伊谷の井伊社の分霊を祀ったことに始まる。 |
井伊直政は徳川四天王の一人。 武田信玄の精鋭部隊「赤備え」を継承し、小牧・長久手の戦いでは「井伊の赤備え」の名をを天下に轟かせた。 浜松秋葉神社は「井伊の赤備え」の発祥地とされている。 |
滋賀県彦根市古沢町 JR琵琶湖線 「彦根駅」下車 徒歩20分 |
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