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鎌倉幕府の御家人佐々木高綱の館は、鳥山八幡宮付近にあったといわれている。 鳥山八幡宮の創建年は不明だが、高綱が勧請したのだと伝えられている。 高綱は、近江源氏・佐々木秀義の四男。 秀義の子定綱・経高・盛綱・高綱は、佐々木四兄弟として知られ、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵に参じて活躍している。 |
佐々木秀義は、源義朝に味方した平治の乱で敗れて奥州へと逃れる途中、相模国で渋谷重国に匿われ、以後20年にわたって重国の保護を受けていたと伝えられている。 |
1184年(寿永3年)正月20日の木曽義仲追討で源義経に従っていた佐々木高綱と梶原景季。 出陣に際して、高綱は「生食」(いけづき)、景季は「磨墨」(するすみ)という名馬を源頼朝から賜わり、宇治川の戦いで先陣を争った。 前方を行く景季に対し、高綱は「馬の腹帯がゆるんでいるから、おしめなされ」と声をかけ、景季が腹帯を締め直している間、高綱は先に川の中に馬を乗り入れ、向こう岸へと渡り、先陣の名乗りをあげたのだという。 宇治川の先陣争い |
池月像 (東京大田区) |
磨墨像 (東京大田区) |
伝説によると、生食(池月)は、1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をして鎌倉を目指す源頼朝が、洗足池の畔に宿営したときに飛来したのだという。 磨墨は、馬込(東京大田区)の産といわれ、萬福寺の山門前には磨墨像が置かれている。 |
出家して高野山に入っていた高綱は、1203年(建仁3年)10月、高野山を下り、比叡山の堂衆追討に赴く、兄経高、盛綱と子の重綱に会っている。 その時、我が子の戦支度を見た高綱は、「山地戦に見合った格好ではなく、死を免れることはできない」と、息子の討死を予言したという。 その予言どおり、重綱は、この追討戦で戦死した。 |
日露戦争で旅順要塞を攻略し、日露戦争の英雄として讃えられ、学習院院長を勤めた乃木希典(乃木将軍)は、高綱の次男・野木光綱の末裔だと伝えられている。 光綱は、父高綱、兄重綱を亡くした後、叔父佐々木義清の猶子となって出雲国に住し、野木氏の祖となった。 毛利氏に仕えた乃木氏は、野木氏の末裔だとされ、のちに、その一族から乃木希典が出たのだという。 |
かつて江の島の片瀬海岸に置かれていた乃木大将像。 |
1912年(明治45年)7月30日、明治天皇が崩御。 大喪の礼が執り行われた9月13日、乃木希典は夫人とともに赤坂の自邸で殉死。 乃木神社は、乃木夫妻を祀る社。 |
高綱が源頼朝から賜った名馬「生食」は、鳥山の地で余生を過ごしたのだという。 高綱は、「生食」の霊を慰めるために駒形明神を建てたというが、今はなく、その代わりに馬頭観音堂が残されている。 |
鳥山の三会寺(さんねじ)は、源頼朝が高綱に命じて建立させたと伝えられている。 |
沙沙貴神社は、近江源氏・佐々木氏発祥の地に鎮座する神社。 |
横浜市港北区鳥山 JR横浜線「小机駅」から徒歩10分程度 |
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