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「池月」(いけづき:生月)は源頼朝愛用の名馬。 1180年(治承4年)に源氏再興の挙兵をした源頼朝は、石橋山の戦いに敗れた後、海路安房(源頼朝上陸地)へと渡り、千葉常胤、上総介広常らの武将を従えて鎌倉へと向かった。 その途中、洗足池の畔に宿営し、諸将の到着を待ったという。 その折、どこからともなく野馬が飛来。 その嘶く(いななく)声は天地を震わすばかり。 郎党が捕らえてみると、逞しい馬体は、青い毛並みで白の斑点を浮かべていたという。 突然、源頼朝の前に現れたこの野馬は、「池に映る月影のよう」であったことから「池月」と名付けられ、頼朝の乗馬とされた。 これより前、源頼朝は「磨墨」(するすみ)も得ており、今また「池月」を得たことは平家征伐軍の成立の吉兆であるとして、征旗を高らかに掲げたという。 この故事から、千束八幡神社は「旗上げ八幡」と呼ばれている。 |
1184年(寿永3年)、源頼朝は、木曽義仲を討つため、弟の範頼と義経を上洛させる。 そして、宇治川の戦いでは、源頼朝から、「池月」を与えられた佐々木高綱と、「磨墨」を与えられた梶原景季の先陣争いが繰り広げられた。 前方を行く景季に対し、高綱は「馬の腹帯がゆるんでいるから、おしめなされ」と声をかけた。 景季が腹帯を締め直している間、高綱は先に川の中に馬を乗り入れ、向こう岸へと渡り、先陣の名乗りをあげたのだとか・・・。 宇治川の先陣争い |
※ | 「池月」は、「生食」や「生月」という文字が使われることもある。 |
磨墨は、馬込(東京大田区)の産といわれ、萬福寺の山門前には磨墨像が置かれている。 |
鳥山八幡宮 (横浜市) |
馬頭観音堂 (横浜市) |
池月は、その余生を高綱館があった鳥山(横浜市港北区)で過ごしたのだという。 鳥山八幡宮は、高綱館の鎮守。 高綱は、「生食」の霊を慰めるために駒形明神を建てたというが、今はなく、その代わりに馬頭観音堂が残されている。 |
鎌倉の御馬冷場は、生食と磨墨の足洗場だったのだと伝えられている。 |
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