木曽義仲追討の宇治川の戦いでは、源頼朝から、「生食」(いけづき)を与えられた佐々木高綱と「磨墨」(するすみ)を与えられた梶原景季の先陣争いが繰り広げられます。 「生食」と「磨墨」とは、ともに頼朝が可愛がっていた名馬。 |
『平家物語』によると・・・ 梶原景季は、頼朝に「生食」を所望しますが、頼朝は、 「この馬は万が一の時、自分が甲冑を着けて乗る馬であるから、磨墨ではどうか。 磨墨も生食に劣らない名馬であるぞ」 といって「磨墨」を与えます。 ところが、佐々木高綱が出陣する際に頼朝のところへ挨拶に来ると、 「生食を所望する者は大勢いるが・・・」 といいながらも「生食」を高綱に与えてしまいます。 感激した高綱は、 「この御馬で宇治川の先陣を承るつもりです。 もし私が討死したとお聞きになったときは、先陣は他の者に渡したとお思い下さい。 生きているとお聞きになられたならば、先陣は確かに高綱が切ったとお思い下さい」 といって頼朝の前を下がったといいます。 その後、進軍する義仲追討軍の中で、高綱が「生食」に乗っていることを知った景季は、 「頼朝から恥辱を与えられた」 として、高綱を殺して自分も自害しようと考えます。 しかし、高綱が機転を利かせて 「宇治川を渡るためには、屈強な馬が必要だったので、頼朝様の生月を盗んで参上した」 と語ると、景季は、 「そうであれば、景季も盗んでくればよかった」 と語り笑ったのだとか。 |
磨墨像 (東京大田区・ 万福寺) |
池月像 (東京大田区・ 洗足池) |
伝説によると、生食(池月)は、1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をして鎌倉を目指す源頼朝が、洗足池の畔に宿営したときに飛来したのだという。 磨墨は、馬込(東京大田区)の産といわれ、萬福寺の山門前には磨墨像が置かれている。 |
『平家物語』によると・・・ 宇治川の戦いは、1月の事でしたので、雪解け水もあって水位が上昇していました。 そこで源義経は、「淀か一口へ回るか、それとも水勢の収まるのを待つか」 と考えていると、畠山重忠が 「瀬踏みをいたしましょう」といって、五百余騎馬の轡を並べていました。 すると、平等院北東、橘の小島が崎から、武者二騎が馬を激しく走らせて出てきます。 梶原景季と佐々木高綱でした。 このとき景季は、高綱より一段ほど先に進んでいたといいます。 高綱は、 「腹帯がゆるんで見えますぞ。お締めなさい」 と景季にいうと、景季は、左右の鐙を踏みゆるめ、手綱を「磨墨」のたてがみに投げかけ、腹帯を解いて締め直しました。 その間に高綱は、景季を追い抜いて、「生食」を川へと打ち入れます。 騙されたと感じた景季も、すぐに「磨墨」を川へ打ち入れ、 「佐々木殿、高名を上げようと思って失敗なさるな。水の底には大綱が仕掛けてあるようだぞ」 と声をかけますが、 高綱は、太刀を抜いて、「生食」の足にかかった大綱を打ち切りながら進み、「生食」も宇治川の流れを気にせず真一文字に渡り、向かいの岸へ乗り上げたといいます。 そして、「我こそは宇多天皇から九代目の後胤、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣」と名乗ったそうです。 一方、景季の「磨墨」は、川の流れに押し流され、はるか下流から岸に上がったといいます。 こうして、宇治川の戦いは、佐々木高綱が先陣を切ったということです。 |
横浜市港北区鳥山は、佐々木高綱の所領でした。 鳥山八幡宮は館跡と伝えられ、名馬「生食」は、鳥山で余生を送ったのだと伝えられています。 |
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