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大泉寺(だいせんじ)は、源頼朝の異母弟阿野全成の居館跡に建つ寺。 全成が居館に建てた持仏堂が大泉寺のはじまりで、当初は真言宗の寺だったが、天正年間(1573〜92年)に曹洞宗に改宗された。 本尊は運慶作と伝わる聖観世音菩薩。 境内には土塁が残され、本堂には全成・時元の親子と、二代将軍源頼家の子で三代将軍源実朝を暗殺した公暁の位牌が残されている。 |
全成の母は常盤御前。 幼名は今若。 同母兄弟に義円(乙若)と義経(牛若)がいる。 1159年(平治元年)の平治の乱で父源義朝が平清盛に敗れると醍醐寺に入った。 1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると寺を抜け出し駆けつけている。 『吾妻鏡』によると、頼朝が石橋山で敗れた後の8月26日、佐々木定綱兄弟と出会い、兄弟とともに相模国の渋谷重国に匿われていたのだという。 10月1日、下総国の鷺沼の旅館で頼朝と対面し、平家打倒の令旨が下されたことを京都で聞き、寺を抜け出して修行僧を装って下ってきたことを話すと頼朝は涙を流して喜んだ。 11月19日には武蔵国の長尾寺が与えられる。 その後、北条時政の娘保子(阿波局・政子の同母妹)を妻とし、駿河国阿野庄が与えられ「阿野」を名乗った。 1192年(建久3年)8月9日、頼朝の次男実朝が誕生すると阿波局が乳母となり、全成は乳母夫として養育係となっている。 |
1159年(平治元年)、父義朝が平清盛に敗れ、翌年、尾張国で暗殺されると、全成は醍醐寺で出家。 『吾妻鏡』には醍醐禅師と記され、その荒くれぶりから「悪禅師」とも呼ばれていたのだという。 |
妙楽寺 (川崎市) |
伊豆山神社 (熱海市) |
妙楽寺は、頼朝が鎌倉入りした直後に全成に与えた長尾寺と関係が深いと指摘されている。 伊豆山神社の古文書「走湯山上常行堂への寄進状」に書かれている花押は、全成のものという可能性があるらしい。 |
〜八幡大菩薩と清水観音に救われた頼朝と常盤の子たち〜 |
1159年(平治元年)の平治の乱後、源義朝の側室常盤御前は、今若(阿野全成)、乙若(源義円)、牛若(源義経)を連れて幼少の頃より信仰していた清水寺に参り、千手観音(子安塔)に三人の子の無事を祈願したという。 『平治物語』(学習院本)には、常盤と三人の子が助けられたのは清水観音の力によるもので、源頼朝が死罪を免れて蛭ヶ小島に流罪となったのは八幡大菩薩(石清水八幡宮)の力によるものだと述べられている。 |
源頼朝の死後、嫡男頼家がその跡を継ぐと、北条時政が源実朝を擁立しようと画策し、全成もそれに加わるが・・・ 1203年(建仁3年)5月19日、武田信光に捕らえられ宇都宮頼業に預けられた。 5月25日、常陸国へ配流。 そして、6月23日、下野国で八田知家に誅殺された(阿野全成の誅殺)。 全成の遺児時元は、北条時政や北条政子の計らいもあって阿野庄で隠棲していたが・・・ 1219年(建保7年)1月27日に源実朝が暗殺されると、2月1日、反北条の挙兵。 しかし、2月22日、北条義時が派遣した軍に攻められて自刃した。 時元は全成の四男。 阿波局(政子の妹)の子であることから、阿野家の嫡子とされていた。 『吾妻鏡』は、時元が謀反を企てて挙兵したと伝えているが、北条氏による源氏粛清とする説がある。 |
全成の娘は、藤原公佐の室となり、その子実直は「阿野」を名乗った。 のちに後醍醐天皇の寵愛を受けた阿野廉子はその末裔。 新田義貞に奉じられて北陸に下った恒良親王や南朝二代天皇の後村上天皇は廉子が産んでいる。 |
全成が誅殺された地は、下野国の益子と伝えられる。 処刑された全成の首は一夜のうちに阿野の地まで飛んできて、松の木の枝に引っかかったのだとか。 その松は1964年(昭和39年)に倒れてしまったが、その跡には記念碑が建てられている。 |
栃木県益子町の大六天の森にある五輪塔は、全成と従者のものと伝えられている。 |
駿河国阿野庄は、現在の沼津市今沢から富士市吉原の辺りだった。 |
静岡県静岡県沼津市井出744 JR東海道線原駅から徒歩30分 |
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