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阿野全成は、河内源氏の棟梁源義朝の子。 母は常盤御前。 源頼朝の異母弟。 源義経の同母兄。 1159年(平治元年)の平治の乱で父義朝が平清盛に敗れたため醍醐寺に入っていたが、1180年(治承4年)に頼朝が挙兵すると寺を抜け出し参陣。 武蔵国の長尾寺を与えられている。 その後、北条時政の娘阿波局と結婚し、駿河国阿野庄を与えられ「阿野」を名乗り、千幡(のちの源実朝)の乳母夫となったが・・・ 頼朝なき後の1203年(建仁3年)5月19日、源頼家への謀反の疑いで捕らえられ、常陸国に流された後、6月23日、下野国で八田知家に誅殺された。 栃木県益子町の大六天の森にある五輪塔は、全成とその従者の墓と伝えられている。 |
全成が誅殺された益子は、宇都宮氏三代当主・朝綱の隠棲地。 『吾妻鏡』によると、謀反を企てたとして捕えられた全成は、宇都宮朝業に預けられ、常陸国に流された。 朝業は北条時政の娘婿で宇都宮氏五代当主・頼綱の弟。 全成を処刑した八田知家は、宇都宮氏二代当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男。 朝綱の弟。 源頼朝の乳母を務めた寒河尼は姉妹。 本拠は常陸国八田の小田城。 益子の北の茂木郷は、頼朝の挙兵時に知家が地頭職を安堵された地で、三男知基が継承していた。 |
沼津市の大泉寺は、全成の屋敷跡に建てられた寺。 伝説によると、下野国で処刑された全成の首は、一夜のうちに駿河国の阿野庄へ飛んで行き、大泉寺の門前にあった松の木に引っかかったのだという。 |
全成の墓の近くにある宇都宮家の墓所は、宇都宮氏三代当主・朝綱が初代宗円・二代宗綱の墓を築いたのが始まり。 |
地蔵院 |
綱神社 |
地蔵院は、朝綱が建立した寺院で、かつては尾羽寺と称されていた。 地蔵院に隣接する綱神社も朝綱の創建。 |
伊豆山神社の古文書「走湯山上常行堂への寄進状」に書かれている花押は、全成のものという可能性があるらしい。 |
栃木県芳賀郡益子町上大羽709付近 駐車場:友愛作業所 益子駅と観光案内所にレンタサイクル有 |
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