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真ん中が伊豆山神社の古文書「走湯山上常行堂への寄進状写」の花押。 この文書は、治承7年7月25日に走湯山(伊豆山)の座主が上常行堂に相模国長墓郷を与えるというもの。 長墓郷は、現在の小田原市永塚。 左は『市河文書』に残された下文(寿永2年12月7日付)の花押。 この文書は、藤原助弘を中野郷内西条の下司職(荘官)にするというもの。 右も『市河文書』に残された下文(寿永3年3月6日付)の花押。 この文書は、信濃国志久見山の地頭職に藤原助広(弘)を補任するというもの。 『市河文書』の2通の文書は鎌倉殿(源頼朝)の意を受けて出されたもので差出人は阿野全成と考えられているらしい。 そして、伊豆山神社の古文書の花押と酷似している。 これらが全成の花押だとすれば・・・ 全成は、鎌倉武家政権の草創期に走湯山(伊豆山)の座主をつとめ、さらに政治的な活動もしていたということ。 大江広元が鎌倉に下向するまでは、全成が政所別当的な役職にあったのかもしれない・・・ |
『吾妻鏡』によると・・・ 源頼朝は挙兵した直後の1180年(治承4年)8月19日、走湯山に伊豆国と相模国の一所を寄進することを約束している。 永塚にある雷電神社は、長墓郷が走湯山に寄進された際、走湯権現(伊豆山権現)を勧請して創建された社と考えられている。 |
治承7年は、寿永2年(1183年)。 源頼朝は、1183年に「寿永二年十月宣旨」を受けるまで「養和」及び「寿永」の年号を使用せず「治承」を使用していた。 |
藤原助弘は、のちに源頼家に近侍する中野能成の父といわれる(娘婿あるいは養子という説も)。 源頼家の近習5人 |
座主は比叡山の貫主(天台座主)のことだが、天台宗系の大寺の首席の僧も座主と呼ばれたのだという。 |
常行堂は、天台宗で常行三昧を修するための堂舎。 走湯権現(伊豆山権現)には上常行堂と下常行堂があったらしい。 |
延暦寺常行堂 |
輪王寺常行堂 |
伊豆山神社は、古くは走湯大権現とも呼ばれ源頼朝と北条政子が崇敬した神社。 境内には、二人の腰掛け石が残されている。 |
静岡県熱海市伊豆山上野地708番地1 JR熱海駅からバスで7分 |
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