1192年(建久3年)3月、後白河法皇が崩御しました。 源頼朝は、後白河法皇の冥福を祈るため法要を執り行っています(後白河法皇の法要)。 後白河法皇の死は政治に大きな変化をもたらします。 頼朝と連携してきた九条兼実が関白となり、兼実の弟慈円は天台座主、娘は後鳥羽天皇の中宮となります。 そして、7月12日、頼朝は念願の征夷大将軍に任命されます。 7月20日には朝廷からの伝令が届き、7月26日には勅使が到着して、鶴岡八幡宮で辞令交付が行われました。 辞令を受け取ったのは、鎌倉幕府の重臣三浦義澄だったといいます。 |
法住寺は、後白河法皇の陵墓を守護してきた寺。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1192年(建久3年)7月20日、頼朝のもとに一条能保からの伝令が到着し、7月12日、征夷大将軍に任じられたことが伝えられます。 一条能保は検非違使長官で頼朝の姉(妹?)の坊門姫の夫です。 7月26日、検非違使庁の中原景良と中原康定が征夷大将軍の辞令をもって鎌倉に到着。 頼朝は辞令受け取りの使者を三浦義澄に命じます。 甲冑姿の比企能員、和田宗実と家来10人を引き連れて鶴岡八幡宮に向かった義澄は、廟庭に並んで立つ衣冠姿の二人から辞令を受け取ります。 その時、勅使から名を尋ねられた義澄は「三浦次郎義澄」と答えたのだといいます。 頼朝より「三浦介」という官職を与えられているにもかかわらずこのように答えたのは、 「国からは正式な辞令をもらっていなかったから」 だったなのだとか。 その後、勅使は大内義信の屋敷に呼ばれ接待を受けますが、接待の担当は八田知家だったようです。 |
「征夷大将軍」というのは、古代律令国家において、「東夷」(あずまえびす)を討伐するために任命された職です。 天皇の判断を仰ぐ必要がない「軍の最高司令官」としての権限が備わっていたといわれていますので、鎌倉に武家政権を樹立し、全国の武士の総帥となった頼朝にとっては、一番合った職だったのかもしれません。 奥州藤原氏を滅ぼした後のことですので、「頼朝にとっては意味のない任命だった」 とする説もあるようですが、頼朝の地位を全国に知らしめるには「大将軍」という称号が必要だったものと思われます。 |
東福寺 (京都) |
最勝金剛院 (東福寺) |
九条兼実は、藤原忠通の三男。 東福寺は、兼実の孫・道家が菩提寺として繁栄した法性寺跡地に建立した寺院。 最勝金剛院は九条家の墓所を管理する東福寺の特別由緒寺院。 |
頼朝は幼い頃、宇太水分神社に参拝して杉を植え、大将軍になれるか否か占ったのだとか・・・ 宇太水分神社には二代目の頼朝杉が聳えています。 |
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