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後白河天皇は、第77代天皇。 1155年(久寿2年)、29歳で即位。 1158年(保元3年)、二条天皇に譲位して院政を開始。 1169年(仁安3年)、法住寺殿で出家して法皇になる。 1192年(建久3年)3月13日、六条殿(長講堂)で崩御(66歳)。 法住寺殿の一画に建立された法華堂に葬られた。 御陵は、後白河院法華堂・蓮華王院法華堂・法住寺法華堂・法住寺御影堂などと呼ばれ、妙法院歴代門跡法親王の墓とともに法住寺が守護してきた。 明治の神仏分離により御陵と法住寺が分離されたが、御陵内には法住寺と刻まれた手水鉢や、法住寺創建当初からあるという井戸(桐の井)が残されている。 法華堂には普賢菩薩が本尊として祀られていたが、明治の神仏分離により廃され、現在は運慶作と伝えられる後白河天皇法体坐像のみが安置されているのだという。 |
法住寺では、1991(平成3年)に八百回の御忌を記念して「法住寺陵御前立御尊像」が造立され、毎年5月1日から7日まで開扉されている。 |
後白河法皇の院御所法住寺殿は、法住寺を中心とした地域に建設された。 延暦寺の鎮守社の日吉社を勧請して新日吉社を建立、信仰していた熊野三山からは熊野神社を勧請して新熊野社を建立。 また、比叡山にあった妙法院を綾小路に移転させ、法住寺と新日吉社を末寺とし、門跡寺院とした。 1176年(安元2年)、後白河法皇が寵愛した妃・平滋子(建春門院)が亡くなると、滋子の法華堂を建立。 しかし、1183年(寿永2年)、木曽義仲の焼討ち(法住寺合戦)に遭い、法皇は六条西洞院の長講堂(六条殿)に移ることになる。 1191年(建久2年)、源頼朝が法住寺殿を修繕し、法皇は一時法住寺殿に移るが、間もなく体調を崩し、1192年(建久3年)3月13日、長講堂で崩御。 法華堂に葬られた。 後白河法皇の法華堂は、建春門院の法華堂と並んで建てられていたと推定されているが、現在は法皇の法華堂のみが残されている。 |
後白河法皇の院御所「法住寺殿」の再建 源頼朝が鎌倉で行なった後白河法皇の法要 |
三十三間堂 |
法住寺殿跡碑 (三十三間堂) |
三十三間堂は、法住寺殿の一画に建てられた蓮華王院の本堂。 堂内には1001体の「木造千手観音立像」が安置されている。 |
後白河法皇が崩御した長講堂は、1183年(寿永2年)の木曽義仲の夜襲で法住寺殿が損傷した後に造営された六条殿内に創建された持仏堂。 |
京都市東山区三十三間堂廻り町の法住寺裏 JR京都駅から市内循環バス 「博物館三十三間堂前」下車。 土日・祝日は閉門。 |
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