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長講堂(ちょうこうどう)は、1183年(寿永2年)、後白河法皇が六条殿に建立した持仏堂を始まりとする。 正式名称は「法華長講弥陀三昧堂」(ほっけちょうこうみださんまいどう)。 六条殿は、1183年(寿永2年)、木曽義仲の法住寺殿襲撃(法住寺合戦) の後に六条西洞院に造営された院御所。 六条殿と長講堂は、1188年(文治4年)に焼失するが、後白河法皇は直ちに再建したのだという。 1190年(建久元年)、上洛した源頼朝は、六条殿で後白河法皇に謁見し、右近衛大将に任じられている。 1192年(建久2年)3月13日、後白河法皇は六条殿で崩御。 死に先だって、膨大な荘園を長講堂に寄進し、長講堂領と呼ばれた荘園は南北朝期の北朝(持明院統)の財政基盤となったのだという。 後白河法皇の崩御後、長講堂は火災による移転を繰り返し、1588年(天正18年)、豊臣秀吉の命により現在地に移転。 宗派は浄土宗。 本山は粟生光明寺(西山浄土宗)。 後白河法皇ゆかりとされる本尊の阿弥陀三尊像と、後白河法皇坐像は重要文化財に指定されている。 |
西山浄土宗総本山の光明寺は熊谷直実が創建した念仏三昧院を前身としている寺院。 参考までに、直実ゆかりの烏寺(専定寺)の本尊は後白河法皇の念持仏だったという阿弥陀仏。 |
三十三間堂は、後白河上皇が院御所法住寺殿内に創建した蓮華王院の本堂。 |
六条殿(長講堂)で崩御した後白河上皇は、法住寺殿の一画に建てられた法華堂に葬られた(66歳)。 法住寺は、後白河法皇の陵墓を守護してきた寺院。 |
法住寺は、後白河上皇の陵墓を守護してきた寺院。 本尊の不動明王像は、比叡山の円仁の造立と伝えられ、後白河法皇の身代わりとなったのだと伝えられている。 |
京都市下京区富小路通五条下ル本塩竈町 |
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