1182年(寿永元年)8月12日、源頼朝と北条政子に待望の男児が誕生。 生まれたのは、のちに二代将軍となる頼家。 政子の産所となったの比企能員の屋敷。 能員は、頼朝の乳母を務めた比企尼の養子。 能員の妻、比企尼の次女と三女などが頼家の乳母に任命されました。 1192年(建久3年)8月9日にも男子が誕生。 生まれたのは、のちに三代将軍となる実朝。 産所となったのは北条時政の名越邸といわれています。 実朝の乳母に任命されたのは、北条時政の娘で母政子の妹阿波局でした。 阿波局の夫は頼朝の異母弟の阿野全成。 「乳母」(めのと)とは、若君の養育係。 多くはその夫も「乳母夫」としてその任にあたり、養育してきた若君が成長したときには、その一族が側近として大きな権力を持つことができました。 頼朝は、鎌倉殿の地位を子孫に継承させ、その血統を盤石なものとするため、有力御家人の比企氏と北条氏に息子たちの養育係を任せました。 ただ、それだけでは盤石とは言えません。 両氏が協力体制を築いてくれなければ・・・ 仕上げは、両氏を姻戚関係とすること。 実朝が誕生してから1か月半後の9月25日、北条義時が比企朝宗の娘姫の前を正室に迎えています。 仲人は頼朝でした。 しかし、事は頼朝の構想とは真逆の方向、比企氏と北条氏の対立へと進んでいきます。 1199年(正治元年)正月13日に頼朝がこの世を去ると、比企氏が乳母夫を務める頼家が家督を継ぎますが・・・ 4月には宿老十三人による合議制が布かれ、頼家の親裁が停止されます。 11月には頼家の乳母夫の一人だった梶原景時が失脚し、翌年1月20日、駿河国で討死。 1203年(建仁3年)6月23日には、頼家への謀反を企てたとして実朝の乳母夫阿野全成が誅殺されました。 そして、この年の9月2日に起こったのが比企能員の変。 北条時政が比企能員を暗殺し、北条政子の命により北条義時が比企邸を攻めて比企一族を滅亡させた事件です。 この事件後、頼家は修禅寺に幽閉され、翌年、暗殺されてしまいます。 頼家が失脚した後は、実朝が家督を継いで三代将軍となりますが、その実権は北条氏が握ることとなります。 その実朝も、1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式の後に甥の公暁(頼家の次男)に暗殺されてしまいました。 さらに公暁も北条義時の命をうけた三浦義村に誅殺され、河内源氏嫡流の血筋は絶えてしまいました。 |
頼朝の子・孫:断絶した血筋 源頼家の嫡子一幡と嫡子のはずだった公暁 源氏の繁栄・衰退・再興・滅亡 乳母制度が生んだ権力闘争〜頼朝・頼家・実朝の乳母〜 頼朝の女性関係〜妻・妾・落胤伝説〜 |
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