流人時代に結ばれた八重姫 |
源頼朝の最初の妻は、伊東祐親の三女・八重姫と伝えられている。 1160年(永暦元年)3月、伊豆に流された頼朝。 伊東祐親監視下にあったが、祐親が大番役で上洛している間に八重姫と結ばれ、男児(千鶴丸)を授かったのだという。 しかし、大番役から戻った祐親が激怒。 千鶴丸は殺され、八重姫は江間小四郎に嫁がされ、頼朝も殺されそうになったのだとか。 頼朝と八重姫の関係については伝承の域を出ないが、 『吾妻鏡』には・・・ 「1175年(安元元年)、伊東祐親が頼朝を殺そうとし、祐親の次男祐清がそのことを頼朝に教えたため走湯権現に逃れることができた」 と記録されているので、頼朝が祐親に殺されそうになったのは確かなこと。 ただ、その原因が八重姫との事にあったのかは不明。 |
※ | 北条時政の子義時も江間小四郎と呼ばれていたが別人。 |
江間四郎・江間小四郎と呼ばれた北条義時 |
音無神社 (伊東市) |
日暮神社 (伊東市) |
音無神社と日暮神社は、頼朝と八重姫の伝説が残された社。 |
伊豆の国市の真珠院にある八重姫御堂は、頼朝との悲恋の末に自殺したという八重姫を祀る堂。 |
流人時代に結ばれた北条政子 |
八重姫と別れた後、結婚したのが北条時政の娘・政子。 長女の大姫が1178年(治承2年)の誕生と考えられていることから、頼朝と政子が結婚したのは1177年(治承元年)頃ではないかと考えられている。 1182年(寿永元年)8月12日、長男の頼家誕生。 1186年(文治2年)、次女の三幡誕生。 1192年(建久3年)8月9日、次男の実朝誕生。 1199年(正治元年)6月30日死去(享年14) |
流人時代から寵愛していた亀の前 |
亀の前は頼朝が伊豆にいた頃から仕えていたのだという。 1182年(養和2年)3月、北条政子が懐妊すると頼朝は・・・ 6月1日、愛人亀の前を鎌倉に呼び寄せ、小坪の小中太光家の屋敷に住まわせた。 亀の前は、器量がよいばかりでなく、心の柔和な女性だったので、前年の春頃から頼朝の寵愛が激しさを増していたのだとか。 その後、頼朝は、小坪では遠いと考えたのか、飯島の伏見広綱の屋敷に亀の前を移すのだが・・・ 10月17日、この浮気が政子に知られてしまう。 激怒した政子は、11月10日、広綱の屋敷を破壊。 広綱は、亀の前を伴って鐙摺の大多和義久の家に逃げ込んだのだという。 しかし、懲りない頼朝は、12月10日、亀の前を再び小中太光家の屋敷に住まわせている。 亀の前は政子の嫉妬を恐れていたようだが・・・ その後、亀の前がどうなったのかは不明。 12月16日、伏見広綱は亀の前を匿った罪で遠江国に流された。 その後、広綱がどうなったのかは不明。 源頼朝に褒められた義時 |
兄義平の正室・祥寿姫 |
祥寿姫は、頼朝の異母兄・源義平の正室。 1160年(平治2年)1月に義平が六条河原で処刑されたことで未亡人となっていたが・・・ 1182年(寿永元年)7月頃になると、頼朝は伏見広綱に命じて祥寿姫に恋文を送っている。 しかし、返事はなし。 そこで、父の新田義重にそのことを話してみると・・・ 義重は北条政子の嫉妬を恐れて、祥寿姫を師六郎という者に嫁がせてしまったのだとか。 『吾妻鏡』の7月14日条には、義重が頼朝に嫌われてしまった事が記録されている。 一説には、源氏の一流である新田氏が頼朝から冷遇されたのは、祥寿姫の件が原因ともいわれている・・・ |
大光院は、徳川家康が新田義重追善のために建てた寺。 |
祥寿姫は、京都で晒された義平の首を故郷に持ち帰り葬ったのだという。 清泉寺には義平の墓がある。 |
頼朝の子を産んだ大進局 |
大進局は、伊達朝宗の娘。 朝宗の母は、源為義の娘といわれ、頼朝とは縁戚関係にあったともいわれている。 大進局は、御所勤めをしていたが、普段から頼朝と密通していた。 そして、1186年(文治2年)2月26日、長門景遠の浜の家で男子を出産(のちの貞暁)。 しかし、北条政子の嫉妬によって、予定されていた出産後の儀式はとりやめとなり、貞暁を育てていた長門景国(景遠の子)は、政子の不興をかったことから、貞暁とともに深沢の里あたりに隠れ住んだのだという。 1191年(建久2年)1月23日、頼朝は、政子の嫉妬が激しいため、大進局に京に近い伊勢国に所領を与えて上洛を促し、翌年5月19日、貞暁を仁和寺に入室させた。 このとき、頼朝は貞暁に守り刀を与えている。 |
大進局も京都に移り住んでいたものと思われる。 |
丹後局(丹後内侍)と御落胤伝説 |
丹後局(丹後内侍)は、頼朝の乳母・比企尼の長女で、安達盛長の妻。 伝説によると・・・ 頼朝に仕えていた丹後局は、やがて、頼朝の子を身籠ってしまう。 それを知った北条政子は激怒。 政子に捕えられて殺されそうになった丹後局は、摂津国住吉に辿り着き、無数の狐火に導かれて住吉大社に至ったのだという。 社頭で産気づいた丹後局は、傍らの大石を抱きながら男児を出産。 それが島津氏の祖・島津忠久なのだとか。 |
大友能直を産んだ利根局 |
御落胤伝説には、波多野経家の三女・利根局との間に生まれたのが、大友氏の祖・能直だというものもある。 能直の誕生は1172年(承安2年)ということなので、この話が本当だとすれば、八重姫より先ということに・・・ |
北条義時の正室:姫の前 |
姫の前は、比企朝宗の娘。 頼朝の御所勤めをしていた女性で、頼朝が仲を取り持って北条義時と結婚をさせたというのだが・・・ とても美しい女性だったようなので、何かあったかもしれない・・・ |
三崎に住まわせた妙悟尼 |
三崎の椿の御所に住まわせていた妾。 頼朝亡き後、出家して妙悟尼と名乗り、頼朝の菩提を弔ったのだとか。 |
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