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光照寺は、沼浜郷に館を構えたという源義朝の長子悪源太義平の菩提寺だと伝えられている。 源義朝の館は、近くの法勝寺付近にあったといわれている(沼浜亭)。 開山などの詳細は不明。 明治の神仏分離までは五霊神社の別当寺でもあった。 |
本尊阿弥陀如来立像は、鎌倉時代の作と考えられ、光触寺の阿弥陀如来立像の系統に属するといわれており、神奈川県の重要文化財に指定されている。 台座裏には1863年(文久3年)の修理銘が刻まれている。 |
源義朝の長子であるが、母の身分が低かったため、嫡男は三男の源頼朝であった。 1155年(久寿2年)、義朝と対立していた叔父義賢(木曽義仲の父)の大蔵館を襲撃して義賢を討ったことで、その勇猛さから「悪源太」と呼ばれた。 1159年(平治元年)の平治の乱後に捕えられ、六条河原で斬首されたと伝えられている。 |
義平の妻祥寿姫は、京都で晒された義平の首を故郷に持ち帰り葬ったのだという。 清泉寺には義平の墓がある。 |
〜源頼朝が義平を匿ってくれたお礼に寄進した多宝塔〜 |
平治の乱で平清盛に敗れた源義朝は、都を落ちて東海道を下って東国を目指したが、義平は途中で義朝と別れて東山道を行くことに。 しかし、義朝が尾張国野間で暗殺されたことを知った義平は、都に戻って清盛を殺害しようとするが失敗。 平家に攻められた義平は、石山寺のあたりに隠れていたが、捕らえられて六条河原で処刑されたのだという。 石山寺の国宝多宝塔は、源頼朝が兄を匿ってくれたお礼に寄進したのだと伝えられている。 |
逗子沼間(沼浜)の史跡巡り 源義朝の旧跡に創建された寺 (鎌倉:寿福寺) たった八騎で都を落ちた源義朝 源義朝を暗殺した長田忠致 常盤御前に源義朝の死を知らせた金王丸 源義平の最期 |
逗子市沼間2−20−17 JR横須賀線東逗子駅より徒歩5分 |
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