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1159年(平治元年)12月27日、平治の乱で平清盛に敗れて都を落ちた源義朝は、東国へと向かう途中で、尾張国野間に立ち寄った。 『平治物語』によると・・・ 12月29日、尾張国野間に着いた義朝は、野間内海荘の長田忠致のもてなしに対し、急いでいるので馬を用意するよう申しつけた。 しかし・・・ 忠致に留められて正月三日まで逗留することとなる。 その間、息子の景致を呼び寄せて義朝の暗殺を企てた忠致は・・・ 1月3日、義朝に湯浴みをすすめ、橘七五郎、弥七兵衛、浜田三郎の三名に義朝殺害を命じた。 三名は、義朝の従者・金王丸が垢すりをしていたため、なかなか襲うことができなかったが、金王丸が着替えを取り出た隙に、橘七五郎が義朝を組み伏せ、弥七兵衛と浜田三郎が左右の脇の下を二度ずつ刺して絶命させた。 湯殿に戻った金王丸は、義朝を殺した三名を湯殿の入り口で斬り伏せ、忠致を討つため奮戦した後、京都の常盤御前のもとに馬を走らせた。 1月5日早朝、常盤御前のもとにたどり着いた金王丸は、義朝が長田忠致に討たれたことを知らせている。 常盤御前は義朝の妾(今若(阿野全成)、乙若(源義円)、牛若(源義経)の母)。 |
※ | 金王丸は、東国へと落ちる義朝に従っていた八騎の一人。 のちに源義経を襲撃する土佐坊昌俊と同一人物とも・・・ |
常盤御前に源義朝の死を知らせた金王丸 |
そのころ、義朝の乳兄弟と呼ばれた鎌田政家は、長田忠致と酒を呑んでいたが、義朝が殺されたことを知って立ち上がったところを、酌をしていた男に二度刺され、背後から景致に首を落とされた。 鎌田政家の妻は忠致の娘。 政家の死を知ると、すぐに駆けつけ、政家の刀で自殺したのだと伝えられている。 |
1月7日、長田忠致・景致父子は、恩賞を貰おうと源義朝と鎌田政家の首を持って上洛。 1月23日、忠致は壱岐守、景致は兵衛尉に任じらたが・・・ 忠致・景致父子が不満を申し立たことから、平清盛の怒りを買い、誅殺されそうになって、慌てて尾張に帰ったのだとか・・・ |
『伝説』によると・・・ 1180年(治承4年)、源義朝の子頼朝が挙兵し平家の全盛が終わると、忠致父子は頼朝の下で働いていたが、1190年(建久元年)10月25日、上洛途上で尾張国野間に立ち寄った頼朝は、長田父子を捕らえて磔(はりつけ)にしたのだという。 ただ・・・ 『吾妻鏡』によると、 源頼朝が挙兵した1180年(治承4年)8月9日条に、長田入道が「北条時政と比企掃部允は頼朝を将軍にして、平家に反逆しようとしている」という平清盛への密書を書いていることが記され、 同年10月14日条には、駿河へ向かう武田信義らと甲斐へ向かう駿河国の目代橘遠茂が鉢田辺りで遭遇した際、遠茂とともに奮戦していた長田入道の子二人が討たれたことが記されている(鉢田の戦い)。 『吾妻鏡』に登場する長田入道=長田忠致だとすると、頼朝の挙兵時に忠致は平家に従っていたことになる。 この鉢田の戦いで忠致も武田信義に討たれたのだという説も・・・ 頼朝の挙兵と甲斐源氏 |
江戸幕府二代将軍徳川秀忠のもとで老中を務めた永井尚政の先祖は、長田忠致の兄・長田親致。 祖父・長田重元が三河国に移って松平広忠(徳川家康の父)に仕え、父・直勝は徳川家康に仕えることとなるが・・・ 主君を殺害した忠致に繋がるとして「永井」に改姓させられたのだという。 |
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