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源義賢は、河内源氏の棟梁・源為義の次男。 源頼朝の父・義朝は異母兄。 東宮体仁親王(のちの近衛天皇)を警護する帯刀の指揮官を務めたことから帯刀先生(たちはきのせんじょう)と呼ばれた。 |
父為義と対立していた兄義朝が南関東で勢力を伸ばすと、それ対抗するため、義賢は北関東へ下って上野国多胡を本拠とする。 武蔵国の秩父重隆と結んで娘を妻とした義賢は、武蔵国比企郡の大蔵館に移り、南関東へも勢力を伸ばしつつあったが・・・ 1155年(久寿2年)8月16日、義朝の長男・義平と重隆と家督問題で対立していた畠山重能に大蔵館を攻められ最期を遂げた。 舅の秩父重隆も討たれ、重隆の子の能隆と孫の重頼は、拠点を大蔵から河越に移している(参考:河越館跡)。 |
義賢の供養のために建立されたと考えられている五輪塔。 平安末期のもので、埼玉県内で最古の例なのだという。 |
源義賢が討たれた当時、長男の仲家は、当時京都にいたものと考えられ、源頼政の養子として育てられた。 1180年(治承4年)5月、全国の源氏に平家打倒の令旨を発した以仁王と頼政が挙兵すると、これに従い、平等院で子の仲光とともに討死した。 |
次男の駒王丸(のちの木曽義仲)は、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国の木曽谷へ逃れて乳母夫の中原兼遠のもとで育てられた。 1180年(治承4年)、以仁王の令旨を受けて挙兵。 1183年(寿永2年)5月11日、倶利伽羅峠の夜戦で平家軍を破って、7月28日に入京するが、後白河法皇と対立し、翌1184年(寿永3年)1月20日、源頼朝が派遣した源範頼と源義経に京を攻められ、近江国粟津で討死した。 |
※ | 畠山重能は大蔵合戦で討たれた秩父重隆の甥。 のちに源頼朝のもとで活躍する畠山重忠の父。 義仲とともに大蔵館を襲撃するが、駒王丸は助け、斎藤実盛に託したのだという。 |
義仲産湯の清水 (鎌形八幡宮) |
斎藤実盛像 (熊谷市妻沼聖天山) |
埼玉県比企郡嵐山町大字大蔵 東武東上線武蔵嵐山駅から徒歩25分 |
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