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妻沼聖天山(めぬましょうでんさん)は、1179年(治承3年)に斎藤実盛が守り本尊の大聖歓喜天を祀る聖天宮を建立したことに始まる寺院。 1197年(建久8年)、実盛の次男実長(阿請房良応)が別当寺としての歓喜院(かんぎいん)長楽寺を開創。 『聖天山縁起』によると、実長は1192年(建久3年)に源頼朝が聖天宮に参詣した折に、歓喜院の建立のため関東八か国の勧進を許されたのだという。 その後、忍城主の成田氏や徳川家康の庇護を受けたが、1670年(寛文10年)に焼失。 現在の本殿「歓喜院聖天堂」は1760年(宝暦10年)の再建。 |
2003年(平成15年)から2011年(平成23年)にかけて修復工事が行われ、豪華絢爛な姿が蘇った聖天堂は、2012年(平成24年)、国宝に指定されている。 |
斎藤実盛(さいとうさねもり)は、武蔵国長井庄を本拠とした武将。 1155年(久寿2年)、仕えていた源義賢が源義朝の子義平に討たれた際、義賢の遺児駒王丸(のちの木曽義仲)を預かり、信濃国木曽の中原兼遠に託したことで知られている。 義賢が滅んだ後は義朝に仕えたが、1159年(平治元年)の平治の乱で敗北。 長井庄は平清盛の次男宗盛の領地となるが、宗盛の家人となった実盛は別当として長井庄の管理を任せられた。 1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、平維盛率いる頼朝追討軍が派遣されるが、追討軍は水鳥の羽音を夜襲と勘違いして敗走(富士川の戦い)。 これは実盛が坂東武者の勇猛さを説いていたため、その恐怖心から追討軍の士気が上がらなかったためという伝説が残されている。 ただ、実盛が追討軍に加わっていたという史実はないらしい。 1183年(寿永2年)、かつて助けた木曽義仲を追討するため平維盛に従って北陸へ出陣するが、篠原の戦いで義仲軍の有力武将・手塚光盛に討たれた。 覚悟を決めていた実盛は、老齢の武士とあなどられないよう白髪を墨で黒く染めて出陣したのだという。 そのため戦後の首実検でも実盛とはわからなかったが、樋口兼光から実盛が髪を染めているという話を聞いた義仲が、付近の池で首を洗わせると墨がおちて白髪に変わったのだという。 実盛だと気づいた義仲は、命の恩人の最期に泣き崩れたのだと伝えられている。 聖天山の実盛像は、手鏡をもって髪を染めている姿。 |
木曽町の歴史資料館「義仲館」には、斎藤実盛の計らいで木曽で育った義仲と、中原兼遠の娘ともいわれる巴御前の像が建てられている。 |
持国天 |
毘沙門天 |
熊谷市妻沼1627 JR熊谷駅より朝日バスで30分。 「太田駅」「西小泉駅」「妻沼聖天前」行きで「妻沼聖天前」下車。 東武太田駅より朝日バスで20分 熊谷駅行き「妻沼聖天前」下車。 |
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