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武蔵国の河越荘を本拠とした河越氏の居館跡。 河越氏は、坂東八平氏の一つ秩父氏の出で、秩父重隆の頃に河越に進出したのだという。 築城は重隆、あるいは子能隆とされている。 |
秩父氏は、「武蔵国留守所惣検校職」にあって武蔵国の最大勢力を有していた。 秩父重隆は惣検校職の継承をめぐる一族の対立から、源義賢を武蔵国比企郡大蔵に迎えて娘を嫁がせて周囲勢力に対抗したが、1155年(久寿2年)、源義朝の長男・義平に大蔵館を攻められ、義賢とともに討たれた(大蔵合戦)。 大蔵合戦で本拠地を失った重隆の嫡男能隆と孫の重頼は、河越を拠点として河越氏を名乗ったのだという。 「武蔵国留守所惣検校職」は重頼が継承している。 |
重頼は、1180年(治承4年)に源頼朝が挙兵すると、一族の畠山重忠・江戸重長とともに衣笠城を攻めて頼朝に敵対したが、頼朝が安房国から武蔵国に進軍してくると参陣。 以後、頼朝に仕えて活躍し、1184年(寿永3年)には娘の郷御前が源義経の正妻となった。 しかし、頼朝と義経が対立すると、重頼は義経の舅という理由で所領を没収され、嫡男の重房とともに誅殺されてしまう。 |
重頼は誅殺されたが、1187年(文治3年)10月には没収された所領が重頼の妻河越尼に安堵され、その後、次男の重時に継承された。 剥奪されていた武蔵国留守所惣検校職も、1226年(嘉禄2年)4月に重時の弟重員に与えられている。 この措置は、三代執権北条泰時が当主の重時ではなく弟の重員に与えることで勢力の分断を図ったのだと考えられている。 その後、河越氏は北条得宗家と密接な関係を築き、泰重が北条泰時、経重が北条経時、宗重が北条時宗、貞重が北条貞時、高重が北条高時から名の一字を拝領。 特に経重は、北条時頼の政権下で鎌倉幕府での地位を向上させた。 しかし、鎌倉幕府滅亡後の1368年(応安元年)、直重を中心とした武蔵平一揆が鎌倉府に対抗して敗北したことにより、河越氏は没落した。 |
1487年(長享元年)から始まった山内上杉家と扇谷上杉家との戦い(長享の乱)では、扇谷上杉家の河越城(川越城)を攻略するため、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)が上戸陣を置いている。 その後、後北条氏の重臣大道寺政繁が砦を築いたとも伝えられ、戦国期には河越城の出城として機能していたものと考えられている。 1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で河越城が落城したことにより廃城。 現在は、河越館跡史跡公園として整備されている。 |
常楽寺 |
日枝神社 |
河越館跡の一角にある常楽寺は、河越氏の持仏堂を前身とする寺。 常楽寺には、河越重頼・郷御前・源義経の供養塔が建てられている。 河越館跡の西にある日枝神社は、河越氏が京都東山の新日吉山王社を勧請した社で、河越荘の総鎮守だった。 |
養寿院にある五輪塔は、河越重頼の墓と伝えられている。 |
河越城は太田道灌が築いた城。 現在では江戸時代の本丸御殿が唯一の遺構。 |
川越市大字上戸194 東武東上線霞ヶ関駅から徒歩15分 |
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