1182年(養和2年)3月、北条政子が懐妊すると、源頼朝は、6月1日、伊豆国で流人生活を送っていたときからの愛人・亀の前を鎌倉に呼び寄せ、小坪の小中太光家(中原光家)の屋敷に住まわせています。 小坪は、由比ヶ浜に「みそぎ」に行くといって出かけるのに都合がよかったのだそうです。 亀の前は、器量がよいばかりでなく、心の柔和な女性だったので、前年の春頃から頼朝の寵愛が激しさを増したのだといいます。 その後、小坪では遠いと考えたのか、飯島の伏見広綱の屋敷に亀の前を移しています。 |
小坪は現在の逗子市。 相模湾に面し、小坪漁港や逗子マリーナがあります。 |
飯島は現在の鎌倉市材木座。 |
密かに通っていたのでしょうが、政子に明るみになってしまう日がやってきます。 10月17日、政子と誕生した頼家が、産所の比企ヶ谷(比企邸)から御所に戻ってきました。 すると、牧の方(北条時政の後妻・政子の継母)が、わざわざ頼朝の浮気の次第を政子に話してしまいます。 激怒した政子は、牧の方の父牧宗親(兄弟とも)に広綱の屋敷を破壊するよう命じます。 11月10日、広綱の屋敷は打ち壊されました。 広綱は、亀の前を伴って鐙摺の大多和義久の家に逃げ込んだそうです。 政子の仕打ちに怒った頼朝は、12日に宗親を引き連れて義久邸を訪れ、広綱に事情を尋ねた上で宗親を詰問します。 宗親は弁明できず陳謝しますが、頼朝は許すことはできず、宗親の髻(もとどり)を切ってしまいました。 武士にとって髻を切られるということは最大の恥辱です。 宗親は泣く泣く逃げ帰ったそうです。 そして、頼朝は亀の前の所に泊まっています。 |
頼朝は、14日の晩に鎌倉へ帰ります。 しかし、この日、頼朝の宗親への仕打ちに怒った北条時政が伊豆国に引きあげてしまいます。 頼朝は、この行動を快く思わなかったようですが、どうすることもできないでいたようです。 ただ、鎌倉に残った北条義時を呼びつけて、なにやら話をしているようですが・・・。 12月10日、頼朝は、亀の前を再び小中太光家の屋敷に住まわせています。 亀の前は、政子の嫉妬を恐れていたようですが、頼朝は亀の前の言葉に耳を貸しませんでした。 一方の政子は、12月16日、伏見広綱を亀の前を匿った罪で遠江国に流しています。 その後、この夫婦喧嘩がどのようになったのかは定かではありません 。 流された広綱はどうなったのでしょう・・・? 亀の前は・・・? 源頼朝に褒められた義時 |
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