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慈円の『愚管抄』によると、牧宗親(まきむねちか)は、北条時政の若き妻(後妻牧の方)の父(兄とも)で、長年平頼盛に仕え、駿河国大岡牧の管理を任されていたのだという。 平頼盛の母池禅尼の弟・藤原宗親と同一人物ともいわれ、伊豆に流された源頼朝が北条時政の監視下に置かれたのは池禅尼の意向からという説がある。 『愚管抄』には「武者ニモアラズ」と記されているが、『吾妻鏡』には「武者所」と記されている。 |
※ | 平治の乱後、源氏嫡流の頼朝が助命されたのは、池禅尼が平清盛に助命を願ったからと伝えられている。 |
1182年(養和2年)11月10日、北条政子の命により、源頼朝の浮気相手の亀の前が匿われている伏見広綱の屋敷を破壊。 翌日、頼朝に呼び出された宗親は髻(もとどり)を切られてしまった。 そして・・・ 11月14日、舅への仕打ちに怒った北条時政が一族を率いて伊豆国へ引き上げる騒動になっている。 ただ、時政の子義時は鎌倉に残っていた・・・。 浮気発覚・政子激怒 源頼朝に褒められた義時 |
頼朝が宗親は髻を切ったのは、鐙摺山での出来事と伝えられています。 |
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