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葉山町にある鐙摺山(あぶずりやま)は、1180年(治承4年)、石橋山の戦いに間に合わなかった三浦軍と、当時平氏方だった畠山重忠が激突した小坪合戦の折、三浦義澄が援軍を送ったとされる場所であることから「旗立山」とも呼ばれている。 源頼朝は石橋山の戦いでは、大庭景親と伊東祐親の軍に敗れたが、安房(源頼朝上陸地)に渡り体勢を立て直して鎌倉入りを果たした。 頼朝は、伊豆に配流の身であった頃、伊東祐親の三女八重姫との間に一子千鶴丸をもうけているが、その子は祐親の怒りにあい、川に捨てられ、頼朝自身も祐親から襲撃されそうになったと伝えられている。 頼朝の鎌倉入り後、祐親は娘婿の三浦義澄に預けられるが、葉山町史によると、この鐙摺で処刑されたのだという(『吾妻鏡』では義澄邸で自刃)。 |
音無神社 (伊東市) |
日暮神社 (伊東市) |
伊東祐親館跡 (伊東市) |
伊東祐親の墓 (伊東市) |
産衣石 (伊東市) |
三島神社 (伊東市) |
源頼朝の一杯水 (熱海市) |
今宮神社 (熱海市) |
最誓寺 (伊東市) |
真珠院 (伊豆の国市) |
源頼朝には、源氏再興の旗挙げの3年前、1177年(治承元年)に密かに三浦を訪れているという説がある。 その時にすでに鎌倉を本拠とすべく偵察していたのだという。 鐙摺山の名は、その三浦微行の際に、頼朝が山を登るときに「馬の鐙が地に摺れた」ことから付けられたといわれている。 三浦微行の際に供をしたのは、石橋山の戦いで討死した佐奈田(真田)与一義忠と逗子の池子での伝説に登場する柳川弥二郎だったという。 |
佐奈田霊社 (石橋山) |
神明社 (逗子池子) |
源頼朝の愛妾亀の前は、伊豆に配流のときから仕えていた娘で、頼朝は、鎌倉にも呼び寄せ、小坪の小中太光家宅に住まわせ寵愛していたという。 その後、飯島の伏見広綱宅に移し寵愛を続けたが、このことを知った北条政子は、牧宗親に命じて広綱の屋敷を破壊させたといわれている。 その後、頼朝は牧宗親を呼び「お前の主人はこの頼朝か政子か」と迫り、宗親の元結を切ったという事件は知られているが、これも鐙摺山での出来事と伝わっている。 浮気発覚・政子激怒 源頼朝に褒められた義時 |
浮気発覚・政子激怒 伏見広綱の屋敷を破壊(頼朝と政子の夫婦喧嘩) |
神奈川県三浦郡葉山町堀内 JR横須賀線「逗子」より 京急バス元町循環で「鐙摺」下車 徒歩5分 |
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