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鎌倉時代の「乳母」(めのと)というのは、生まれた子に乳をあげる役目の「うばさん」ではなく、若君の養育係という意味をもっていた。 多くはその夫もその任にあたっている。 |
源頼朝の乳母の一人に、武蔵国比企郡の代官比企掃部允の妻(比企尼)がいる。 比企尼は、平治の乱で敗れた頼朝が、伊豆国の蛭ヶ小島に流された後も、20年という長い間、頼朝の生活のための援助をしていたのだという。 そういった縁から、鎌倉に武家の都を築いた頼朝は、比企尼に屋敷を与えている。 その場所は、現在の比企ヶ谷で、『新編相模国風土記稿』は、それが「比企ヶ谷」の地名の起こりだと説明している。 頼朝には比企尼の他に数人の乳母がいた。 ○小山政光の妻寒河尼 ○山内俊通の妻山内尼 ○三善康信の伯母 |
1182年(寿永元年)、北条政子の産所として選ばれたのは比企能員の屋敷。 能員は比企尼の甥で、のちに養子となって比企氏を継いだ人物。 8月12日、能員の屋敷で誕生したのが、のちに2代将軍となる頼家。 能員の妻が乳母に就任した(能員の妻の他、比企尼の次女と三女も頼家の乳母を務めている。)。 のちに、頼家は能員の娘若狭局を妻とし、一幡をもうけた。 |
1192年(建久3年)8月9日、のちの三代将軍となる実朝が誕生。 実朝の乳母は、北条時政の娘で、母政子の妹の阿波局。 阿波局の夫は頼朝の異母弟の阿野全成。 |
「乳母」=「養育係」 なぜ若君に献身的に尽くすのか? それは、養育してきた若君が成長したときに、その一族が側近として大きな権力を持つことができるから。 比企尼が流人の頼朝を20年間も支え続けた結果、比企能員が鎌倉幕府の有力御家人として栄えたことでも明らかなこと。 |
1199年(正治元年)正月13日、頼朝がこの世を去り、長男頼家がその家督を継ぐ。 通常、これで安泰ということなのかもしれないが・・・ 北条氏にとってはそうではない。 頼家の側近としてその勢いを増す比企氏と、頼家の母政子の実家である北条氏との対立が深まっていくことになる。 頼家を廃して、実朝を将軍の座に据えたい北条時政は、1203年(建仁3年)、頼家が重病になったのを機に、比企能員を自邸に誘き出して暗殺。 同時に比企邸を攻めて比企一族を滅ぼした(比企氏の乱)。 |
比企氏の乱後、頼家は伊豆修禅寺に幽閉され、翌年暗殺された。 修禅寺には、頼家の墓が建てられ、冥福を祈るために政子が建てたという指月殿があるが・・・ 頼家は北条氏に対してどのような思いもちながら最期を迎えたのだろう・・・ |
源頼家の墓 |
指月殿 |
頼家の跡を継いだ実朝は、1219年(承久元年)1月27日、頼家の子公暁によって暗殺された。 公暁は「父の仇」と叫んで実朝を殺害したといわれている。 参考までに、公暁の乳母夫は実朝暗殺の黒幕ともいわれる三浦義村。 事件後、公暁は義村によって討たれている。 |
壽福寺五輪塔 |
源実朝公御首塚 (秦野市) |
頼朝の子・孫:断絶した血筋 失敗だった?頼朝の鎌倉殿継承構想 |
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