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1203年(建仁3年)9月2日、北条時政は自邸に比企能員を誘き出して暗殺。 暗殺を実行したのは、時政の命を受けた仁田忠常と天野蓮景(遠景)。 二人は、能員の左右の手をつかみ、山裾の竹藪の中に能員を引きずり込み、殺害したのだという。 |
『吾妻鏡』が伝える比企能員暗殺 『吾妻鏡』が伝える比企一族の最期 |
『吾妻鏡』によると・・・ 比企能員暗殺から3日後の9月6日、時政は、能員追討の褒美を与えるため、仁田忠常を自邸(名越邸)に呼び寄せた。 しかし、忠常は暗くなっても出て来ない。 これをおかしいと思った忠常の護衛の男は、忠常の馬を引き連れて帰宅し、このことを忠常の弟五郎と六郎に報告した。 五郎と六郎はこう考えた。 「ひょっとして、将軍から時政を討つよう命じられていたことがばれてしまい、殺されてしまったのではないか・・・」と。 五郎と六郎は、その復讐のため北条義時を襲撃(そのとき義時は北条政子邸(御所)にいたらしい。)。 しかし、五郎は波多野忠綱に討たれ、六郎は台所に火を放ち自殺。 一方、忠常は名越邸を出て、帰宅する途中にこのことを知ったのだが・・・ 弟たちの行動で謀反を疑われた忠常は、御所へ向かう途中、加藤景廉に誅された(享年37)。 |
この前日、和田義盛と忠常は、将軍源頼家から「北条時政を征伐せよ」という命令を受けている。 しかし、義盛は、使者の堀親家が持ってきた頼家の文書を時政に渡したのだとか・・・ その後、堀親家は、工藤行光に殺されている。 |
慈円の『愚管抄』によると、忠常は、頼家が重病となって家督を一幡に譲ろうとしていたことを知らずに比企能員を討ったのだという。 そして、9月5日、出仕した侍所で北条義時と戦って討たれたと伝えている。 ということは、 『吾妻鏡』が伝える時政追討令が出された後の忠常誅殺の記事は北条の正当を伝えるための作り話とも考えられる。 『愚管抄』の記事に対して、義時に武勇で知られた忠常を討てるはずはなく、和田義盛の間違いではないかという説がある。 |
慈円の愚管抄が伝える比企能員の変 |
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