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積翠寺(せきすいじ)は、武田氏の躑躅ヶ崎館の詰城として築かれた要害山城の麓にある寺。 行基によって開かれたと伝わり、夢窓疎石の弟子・竺峰和尚を中興開山としている。 もとは、巨石から泉が湧き出ていたことから石水寺と呼ばれていたのだという。 境内には、要害山城(または積翠寺)で誕生した武田信玄の産湯を汲んだという井戸が残されている。 臨済宗妙心寺派。 本尊は釈迦如来。 |
要害山城は、信玄の父武田信虎が1520年(永正17年)に緊急時の避難のため、躑躅ヶ崎館(武田氏館)の後方に築いた詰城。 1521年(大永元年)、駿河の今川軍が甲府に攻め入った際、懐妊していた信虎の正妻・大井夫人は、要害山城へ避難して信玄を産んだのだと伝えられている。 一説によると、要害山城の入口の積翠寺が信玄の誕生地ともいわれ石柱には「機山武田信玄公誕生之寺」と刻まれている。 「機山」は、信玄が帰依した恵林寺の快川紹喜に授けられた号。 |
※ | 「機山」は、長禅寺の岐秀元伯に与えられた名とも伝わる。 |
武田氏三代の城だった躑躅ヶ崎館と要害山城は、甲州征伐で武田氏が滅亡し、天正壬午の乱後、甲斐国が徳川氏の領地になると・・・ 躑躅ヶ崎館には仮御殿が造営されて家康の家臣・平岩親吉が入城し、要害山城にも城番が配置された。 家康が関東移封となった後も豊臣氏の家臣・加藤光泰によって修築されていたが、関ヶ原の戦い後、甲府城の築城が本格化すると廃城となった。 |
信玄の父信虎は、躑躅ヶ崎館を築いて甲府を開き、甲斐国を統一した武将。 1541年(天文10年)、信玄によって駿河国の今川義元もとに追放されて出家。 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで義元が討死すると、上洛して将軍・足利義輝に奉公したのだという。 1574年(天正2年)、六男・武田信廉の居城・高遠城で死去。 |
大泉寺は、武田信虎の菩提寺。 |
大泉寺の霊廟には、曽我兄弟の供養塔が置かれている・・・ 信虎は、曽我五郎時致が甲斐国の国主として生まれ変わってくるという夢を見たのだとか・・・ そして生まれた子がのちの武田信玄。 |
山梨県甲府市上積翠寺町984 甲府駅北口から積翠寺行バスで終点下車 徒歩5分 |
積翠寺から2qほど下ると、躑躅ヶ崎館跡に建てられた武田神社。 |
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