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平岩親吉(ひらいわ ちかよし)は、徳川家康が今川氏の人質だった頃から仕えた武将。 家康とは同い年。 |
1567年(永禄10年)には、元服した家康の嫡男・信康を守役として補佐することとなるが・・・ 1579年(天正7年)、織田信長は謀反を理由に、信康に切腹を命じる。 親吉は守役としての責任から、自らの首を信長に差し出すことで、信康の助命を願ったのだと伝えられている。 |
当時・・・ 信康が城主だった岡崎城では、大岡弥四郎が謀反を起こし処刑され、 長篠の戦い後には、家康の伯父水野信元が武田に内通したとして大樹寺で誅殺されている。 そして、信康と母の築山殿も信康の正妻・徳姫(信長の娘)に武田内通を讒訴され、信康は9月15日、二俣城で切腹。 築山殿も8月29日に殺害された。 この責任から、親吉は一時、蟄居謹慎したのだという。 |
清瀧寺の信康の霊廟には、殉死した吉良初之丞、二俣城主だった大久保忠世、三方ヶ原の戦いで討死した中野正照・青木吉継の墓もある。 |
大岡弥四郎の謀反〜岡崎城を制圧する予定だった武田勝頼〜 水野信元〜徳川家康に誅殺された於大の方の兄〜 徳姫・五徳・岡崎殿〜織田信長の長女・松平信康の正室〜 築山殿〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 |
1582年(天正10年)、甲州征伐で武田が滅び、本能寺の変で信長が横死すると、家康は天正壬午の乱を経て甲斐国を平定。 翌年、家康は甲府城の築城を親吉に命じ、親吉は甲府郡代とし甲斐国の経営にあたったのだという(諸説ある。)。 1590年(天正18年)の小田原征伐後は、上野国の厩橋を与えられた。 1600(慶長6年)の関ヶ原の戦い後、再び甲府に戻っている。 1603年(慶長8年)、家康の八男・義直が甲府藩主となるが、2歳だった義直は駿府城にあって甲斐へ入国することはなく、親吉が義直の代理として統治している。 |
武田氏三代の城だった躑躅ヶ崎館と要害山城は、天正壬午の乱後、躑躅ヶ崎館には親吉が入城し、要害山城にも城番が配置された。 しかし、関ヶ原の戦い後、甲府城の築城が本格化すると廃城となっている。 |
家康は、1610年(慶長15年)、尾張国の拠点を清州城から名古屋城へ移すことに。 親吉は犬山城に入り、尾張藩主の義直の監督・補佐をして藩政に携わった。 1611年(慶長16年)12月30日、まだ移転が完了しない名古屋城で死去(享年70)。 義直は、1616年(元和2年)に名古屋城に入り、尾張名古屋藩の初代藩主となっている。 |
清州城は、織田信長が尾張支配の拠点とした城。 関ヶ原の戦い後は、家康の四男松平忠吉が城主となり、忠吉が死去すると徳川義直が城主となっている。 |
清州城の移転は、「清洲越し」(きよすごし)と呼ばれ、清州城下の神社・仏閣、町屋などのほとんどが名古屋に移っている。 |
犬山城は、小牧・長久手の戦いの舞台となった城。 |
二条城は、徳川家康が京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として築城。 親吉の死因は、二条城で豊臣秀頼に勧めた毒饅頭とも・・・ |
二条城の毒饅頭〜平岩重吉の豊臣秀頼毒殺未遂の噂〜 |
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