|
水野信元(みずののぶもと)は、徳川家康の生母・於大の方の異母兄。 1543年(天文12年)、信元が仕えていた今川義元から織田信秀に寝返ったことで、家康の父・松平広忠は於大の方と離縁することとなったのだという(諸説ある)。 その後、於大の方は阿古居城主の久松俊勝に再嫁している。 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、信元は家康(当時は元康)に信長に従うよう勧告。 1562年(永禄5年)、家康は清州城で信長と清州同盟を結ぶこととなる。 三河一向一揆や三方ヶ原の戦いなどで家康を援けた信元だったが・・・ 1575年(天正3年)の長篠の戦い後、信長から武田勝頼への内通を疑われ、家康に殺害命令が下される。 12月27日、於大の方の夫・久松俊勝が真相を知らずに信元を岡崎城に案内し、大樹寺で平岩親吉と石川数正が誅殺したのだと伝えられる。 |
大樹寺は、徳川氏・松平氏の菩提寺。 桶狭間の戦い後、家康は大樹寺に逃げ込むが・・・ 今川義元が織田信長に討たれたことを家康に知らせたのは、水野信元だったのだという。 |
水野信元が武田と内通していると訴えたのは、織田信長の重臣・佐久間信盛で、信元は信盛の指揮下にあった。 長篠の戦い後、信長は武田氏に奪われていた岩村城を兵糧攻めにするが・・・ この時、信元が岩村城に籠る秋山虎繁と内通し、食料を岩村城に流していたというのが信盛の訴え。 しかし、1580年(天正8年)、信長は信盛を追放し、信元が冤罪だったと認め、信元の弟・忠重に旧領の刈谷城を与えて水野家を再興させている。 まだ幼かった信元の子・松千代は、家康の計らいで土井利昌の養子となり、秀忠の時代に老中となっている(土井利勝)。 |
水野信元が誅殺された後、信元を岡崎城に案内した久松俊勝は、激怒して西郡城に隠退。 1577年(天正5年)には、俊勝の子信俊も佐久間信盛の讒言により大坂の四天王寺で自害させられている。 夫が出奔したことにより、於大の方と子たちは、家康の下に引き取られ岡崎城で暮らしていたらしいが、於大の方は、兄を殺した石川数正を深く恨んでいたのだという。 数正は、小牧・長久手の戦い後に出奔してしまうが、このことが原因ともいわれる。 信元の誅殺からから4年後・・・ 武田勝頼と内通していたとして、家康の正妻・築山殿と嫡男の信康が処分されるが、於大の方も関係していたのだろうか??? 信康の後見役は数正だったらしい。 参考までに・・・ 信元を誅殺した平岩親吉は、信康のお守役で、織田信長が信康の切腹を命じると、自らの首を信長に差し出すことで信康の助命を願ったのだと伝えられている。 |
築山殿〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 長勝院・お万の方〜結城秀康を産んだ徳川家康の側室〜 西郷局・お愛の方〜徳川秀忠を産んだ徳川家康の側室〜 大岡弥四郎の謀反〜岡崎城を制圧する予定だった武田勝頼〜 平岩親吉〜松平信康・徳川義直の守役・家康の幼馴染〜 石川数正〜小牧・長久手の戦い後に出奔した家康の重臣〜 |
|