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1560年(永禄3年)5月12日、駿河・遠江・三河の三国を領有した今川義元が上洛のため、二万五千の兵を率いて尾張国へ進軍を開始。 5月18日、沓掛城に入り、19日には大高城へ向けて出発。 大高城には、兵糧を届けるため松平元康(のちの徳川家康)を先行させていた。 一方、迎え撃つ織田信長は、大高城への兵糧供給を阻止するために築いた丸根砦・鷲津砦が松平元康と朝比奈康朝の攻撃で陥落した報を聞くと、早朝(4時頃)に清州城を出陣。 熱田神宮で戦勝を祈願し、善照寺砦に2,000人から3,000人の軍勢を集結させた(10時頃)。 その頃、大高城へ向かっていた義元は、桶狭間北方の田楽狭間で休息をとっていたが、昼頃になって天気が急変。 信長は雷雨の中、約2000の兵を率いて義元の本陣近くの釜ヶ谷に進み、雨の収まるのを待って義元本陣を奇襲し、義元を討ち取ったのだと伝えられている。 |
幼少期から今川氏の人質として駿河国で過ごし、今川義元の配下にあった松平元康(家康)。 桶狭間の戦いでは大高城に兵糧を届けた。 |
桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破ると、松平元康(家康)は父広忠の死後に今川氏の支城となってしまった岡崎城を奪還。 義元が討たれた後、三河国に戻った元康は大樹寺で自害を考えたが、住持の登誉天室に諭され生き抜く決意をしたのだという。 |
人質となった竹千代〜織田・今川の人質だった徳川家康〜 |
今川義元の菩提寺は天澤寺だったが、衰退したため廟所が臨済寺に移されたのだという。 |
名古屋市緑区桶狭間北3丁目 JR東海道本線「大高駅」から名古屋市営バスで「桶狭間古戦場公園」下車 |
豊明市栄町南舘11 名鉄名古屋本線「中京競馬場駅前」下車 徒歩約3分 |
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