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1547年(天文16年)、尾張の織田信秀(信長の父)が三河に侵攻してくると、岡崎城の松平広忠は駿河の今川義元に加勢を願うが・・・ 義元は見返りを要求してきた。 広忠は嫡男の竹千代(6歳・のちの徳川家康)を人質として義元に差し出すことに。 ところが、義元の命で竹千代を受け取りに来た戸田康光は・・・ 駿府へは向かわず、信秀のところへ向かい、永楽銭で千貫文(百貫文とも)で売り渡してしまったのだという。 |
今川氏を裏切ったという戸田康光は三河国の武将。 松平清康(家康の祖父)に従っていたが、清康が亡くなると今川氏に従っていたのだという。 竹千代を織田氏に売ったことで、今川義元の怒りを買い、本拠の田原城を攻められ討死したと伝えられるが・・・ 近年の研究では・・・ 竹千代が織田の人質となったのは、岡崎城を落とされた広忠が降伏の証として差し出したという説が有力。 さらに、田原城が落とされたのも1550年(天文19年)頃という説がある。 |
竹千代が織田の人質となってから2年後の1549年(天文18年)、松平広忠が死去。 同年、今川軍が織田氏の安祥城を攻めて大勝し、織田信秀の子信広を捕虜とした。 その後、今川義元と信秀との間で信広と竹千代の人質交換が行われ、竹千代は駿府へ送られることとなり、岡崎城には今川氏の代官が置かれることとなる。 |
安祥城は三河国にあった城で、松平氏の重要な拠点だったが、1540年(天文9年)、織田信秀に落とされ、信秀の子信広が入城。 1545年(天文14年)、松平広忠は安祥城を奪還するため出陣するが失敗。 そして、1547年(天文16年)、信秀の三河侵攻が行われ、竹千代の人質問題が起こっている。 1560年(永禄3年)、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、松平元康(家康)は今川氏から独立し、信長と清洲同盟を締結。 前線としての価値が薄れた安祥城は1562年(永禄5年)頃に廃城になったのだという。 |
今川氏の本拠は駿河国の駿府館。 甲斐国の武田信玄による駿河侵攻により今川館は焼失。 のちに駿河国が家康の領地となると駿府城が築かれるが、今川館と家康の駿府城が同じ場所かどうかは不明。 |
高月院は、戦国大名松平氏の祖といわれる松平親氏の墓所。 今川氏に人質に出された竹千代は、駿河国へ向かう途中で高月院を参拝し、「花月一窓」の書を残したのだという。 |
小梳神社は、今川氏の人質となった竹千代が今川義元に対面する前に祈願したという社。 |
今川氏の人質として駿河国で暮らした竹千代は、臨済寺や清見寺に住持した太原雪斎に師事。 |
1555年(天文24年)3月、竹千代は今川義元を烏帽子親として元服。 元服式は静岡浅間神社で行われた。 |
大樹寺は、徳川将軍家の位牌所。 桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破ると、今川氏に従っていた徳川家康(当時は松平元康)は、大樹寺に逃れて自害を決意したのだという。 しかし、住持の登誉天室に諭され生き抜く決意をし、誕生地の岡崎城に辿り着いたのだと伝えられている。 |
元康から家康に改名・松平から徳川に改姓 築山殿(瀬名姫)〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 |
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