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築山殿(つきやまどの)は、徳川家康の正室。 父は今川氏の家臣・関口親永(関口氏純・瀬名義広)。 母は今川義元の妹(伯母とも養女とも)。 誕生年は不明。 通称は瀬名姫。 1557年(弘治3年)、今川家の人質として駿府にいた松平元信(のちの徳川家康)と結婚。 竹千代(のちの松平信康)と亀姫を産んでいる。 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、元康(元信を改名)は今川氏から独立し、誕生地の岡崎城を拠点に三河統一を目論むが・・・ 築山殿と子たちは今川氏の人質状態となる。 1562年(永禄5年)、織田信長と同盟を結び(清州同盟)、今川氏の家臣・鵜殿長照の上ノ郷城を落とした元康は・・・ そのときに捕らえた長照の子氏長・氏次と、築山殿と子たち(嫡男・竹千代と長女・亀姫)との人質交換を今川氏真に要求。 今川氏真がその要求を呑んだことで、築山殿と子たちは岡崎に移った。 ただ、築山殿は岡崎城ではなく城外で暮らしていたらしい。 築山という呼び名は屋敷があった場所の地名に由来するのだという。 元康が今川氏から独立して信長と同盟を結んだことは、築山殿と元康の不和の原因になったといわれている。 この時、すでに元康から離縁されていたという説もある。 |
※ | 父の関口親永は駿府の屋敷で切腹、母も自害したと伝えられる。 |
※ | 築山殿の母は井伊直平の娘という説がある。 |
徳川家康と築山殿と井伊直政〜築山殿は井伊の血を引くのか?〜 |
1567年(永禄10年)、竹千代(信康)が信長の長女・徳姫と結婚し、家康(元康から改名)の嫡子として岡崎城に入ると、築山殿も生母として岡崎城に入ることとなる。 1570年(元亀元年)、家康は信康に岡崎城を譲って浜松城に移るが、築山殿は岡崎に留まり、嫡子ができない信康に元武田氏の家臣の娘などを側室として迎えさせたとされている。 このことが徳姫との不和へとつながり・・・ 1579年(天正7年)、信康とも不仲となったといわれる徳姫が、築山殿と信康の罪状(武田との密通など)を記した十二ヶ条の訴状を安土城の父信長に送ると・・・ 信長は、家康に信康の殺害を命じたのだという。 8月3日、岡崎城に入った家康は、翌日、信康を遠江国の堀江城に移し、さらに二俣城に移した。 築山殿は浜松城へ移されることになるが、8月29日、その途中の遠江国小藪村で殺害され、信康は9月15日に二俣城で自害(切腹)させられた。 |
人質となった竹千代〜織田・今川の人質だった徳川家康〜 元康から家康に改名・松平から徳川に改姓 |
徳姫が信長に送った訴状の内容については明らかではないが・・・ 築山殿は・・・ 桶狭間の戦い後、家康が今川氏を離れ織田信長に付いたことで、父の関口親永が今川氏真から切腹を命じられたことを恨んでいたのだという。 そして、甲斐国から呼び寄せた唐人医師・滅敬(減敬)と密通し、武田勝頼と内通していたのだとか・・・ 信康は・・・ 気性が激しく、 領内の盆踊りでは、服装の貧相な者や踊りの下手な者を「敵の間者」だといって射殺したり、 鷹狩りでは、出会った僧を縄で絞殺する といった乱暴な振る舞いが多い人物だったのだという。 また、徳姫は二人の子を産んだが、二人とも女子だったので腹を立ていたのだとも伝えられている。 |
徳姫の訴状を安土城に届けた徳川四天王のひとり酒井忠次は、信長に訴状の内容について問われたが、事実と認めたのだという。 |
徳姫・五徳・岡崎殿〜織田信長の長女・松平信康の正室〜 |
近年の研究では、築山殿の殺害と信康の切腹は、徳姫の訴状が原因ではないとする説がある。 それは、信康と対立した家康が徳姫の父である信長に相談し、家康の事情で築山殿を殺害し、信康を自刃させたというもの。 この事件が起こる前から家康と信康との間には深刻な対立があったらしい・・・ |
1575年(天正3年)、三河国に侵攻した武田勝頼は、信康のもとで町奉行を務めていた大岡弥四郎の手引きで、岡崎城を制圧する予定だったのだという。 しかし、弥四郎の謀反計画が発覚してしまったため、長篠城を奪還する作戦に切り替えたのだとか(長篠の戦い)。 弥四郎の謀反には築山殿が参画していたとも・・・ |
築山殿は・・・ 「甲斐国の医師・滅敬(減敬)と密会し、武田勝頼に信康が味方すると伝えた」 という記録が残っているのだという。 そのことは徳姫の十二ヶ条の訴状にも書かれていたらしい。 また、勝頼が抱き込んだ甲斐国の歩き巫女も築山殿の屋敷に出入りしていたのだとか・・・ |
大岡弥四郎の謀反〜岡崎城を制圧する予定だった武田勝頼〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 平岩親吉〜松平信康・徳川義直の守役・家康の幼馴染〜 |
1574年(天正2年)、家康の側室・お万の方(長勝院)が懐妊すると、築山殿は城外に追放し、生まれた子を認知させなかったのだという。 |
長勝院・お万の方〜結城秀康を産んだ徳川家康の側室〜 |
二代将軍となる秀忠を産んだお愛の方(西郷殿)は、築山殿の侍女に暗殺されたという説が・・・ |
西郷局・お愛の方〜徳川秀忠を産んだ徳川家康の側室〜 |
家康の母於大の方の兄水野信元も、武田勝頼に内通したとして誅殺されている。 |
水野信元〜徳川家康に誅殺された於大の方の兄〜 |
築山殿と信康の事件については、不明な部分が多く、様々な説が出されているが・・・ いずれにしても、家康は、事件後に側室とした阿茶局に救われたのかもしれない・・・ |
阿茶局・雲光院〜才知に長けた徳川家康の側室〜 |
築山殿の長女亀姫は、長篠の戦い後、戦功のあった奥平信昌の正室となった。 |
亀姫・加納御前〜奥平信昌の正室となった徳川家康の長女〜 |
1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いの翌年、家康の重臣・石川数正が岡崎城を出奔。 理由は不明だが、水野信元の誅殺や築山殿と信康の事件が関係しているのではないかという説もある。 |
石川数正〜小牧・長久手の戦い後に出奔した家康の重臣〜 水野信元〜徳川家康に誅殺された於大の方の兄〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 |
浜松城は、遠江国に侵攻して今川氏の曳馬城(引間城)を落とし、翌年には掛川城を開城させて遠江国を手中にした家康が築いた城。 |
西来院の月窟廟は、築山殿の廟堂。 築山殿を殺害した野中重政、介錯を務めた岡本時仲、検使だった石川義房は、みな病となったり身内に不幸が起こったのだと伝えられている。 |
二俣城は、浜松城の防衛拠点となった城で、家康と武田信玄の激しい争奪が繰り広げられた。 1579年(天正7年)8月3日、岡崎城を出された信康は、大浜城・堀江城に移され、さらに二俣城に移された後、9月15日に自刃を命じられたのだと伝えられている。 |
清瀧寺は、徳川家康が松平信康の廟所として建立した寺院。 信康自刃の際に殉死した吉良初之丞、二俣城主だった大久保忠世、三方ヶ原の戦いで討死した中野正照・青木吉継の墓もある。 |
萬松院は、信康が自刃した当時、二俣城の城主だった大久保忠世が、のちに城主となった小田原城の城下に信康を供養するために創建した寺院。 信康を自害させたことを悔やんでいたという忠世は、1594年(文禄3年)、信康が自害した日と同じ9月15日に死去。 自身が創建した大久寺に葬られたのだという。 |
西念寺は、信康の介錯を命じられたという服部半蔵が信康の慰霊のために創建した安養院を前身とする寺。 信康の供養塔と半蔵の墓が残されている。 |
松平信康の介錯を命じられた服部半蔵 |
築山殿の事件後、武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍に攻められ、1582年(天正10年)3月11日、甲斐国天目山の麓で自刃。 同年6月2日、織田信長は、本能寺逗留中に明智光秀に攻められて自刃した。 |
安土饗応〜織田信長・徳川家康・明智光秀と本能寺の変〜 |
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