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1579年(天正7年)、徳川家康は、武田に内通していたとして正妻の築山殿を殺害し、嫡男の松平信康に切腹を命じた。 信康が遠江国の二俣城で自害する際、検使役として遣わされたのが服部半蔵(正成)。 信康の介錯を命じられたのは渋川四郎右衛門。 しかし・・・ 代々恩義のある主君の首に刀はあてられないとして出奔。 そのため、正成が介錯を命じられることに・・・ 信康のいたわしい姿を見た正成は、首を打つことができず、刀を投げ捨て倒れ伏してしまったのだという。 結局、介錯したのは検使役だった天方通綱だったのだとか。 |
信康が切腹した二俣城は、浜松城の防衛拠点となった城で、家康と武田信玄の激しい争奪が繰り広げられた。 8月3日、岡崎城を出された信康は、大浜城・堀江城に移され、さらに二俣城に移された後、9月15日に切腹を命じられたのだと伝えられている。 |
信康は小松原長安院に葬むられた。 家康は長安院に位牌堂を建立し、清瀧寺と改めさせたのだという。 |
1594年(文禄3年)、服部半蔵(正成)は、江戸麹町の清水谷に安養院を創建。 西念寺は、安養院を前身とする寺院。 |
信康の供養塔を建てて菩提を弔いながら余生を過ごし、1596年(慶長元年)に死去。 安養院に葬られた。 |
萬松院は、のちに小田原城の城主となった大久保忠世が信康を供養するために創建。 信康を自害させたことを悔やんでいたという忠世は、1594年(文禄3年)、信康が自害した日と同じ9月15日に死去。 自身が創建した大久寺に葬られたのだという。 |
築山殿〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 |
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