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二俣城(ふたまたじょう)は、今川氏が遠江国の斯波氏に対抗するために築いたことに始まるとされるが、築城年等の詳細は不明。 今川義元の時代になると遠江の国人・松井宗信が城主となるが、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで義元とともに討死。 子の宗恒が継いだが・・・ 1568年(永禄11年)、甲斐国の武田信玄が駿河国への侵攻を開始すると、信玄と同盟を結んでいた三河国の徳川家康が遠江国へ侵攻し二俣城は落城。 この年、家康は曳馬城を落とし、翌年には掛川城も開城させているが、武田と徳川の同盟は破綻している。 1570年(元亀元年)、家康が岡崎城から浜松城に移ると、二俣城は浜松城の防衛拠点となっていたが・・・ 1572年(元亀3年)、武田信玄の遠江侵攻によって落城(二俣城の戦い)。 三方ヶ原の戦いで家康は信玄に大敗を喫するが、その後、三河国に侵攻した信玄が病に倒れ、間もなく死去。 家康は二俣城奪還のため動き出すが、一方で高天神城が武田勝頼に奪われるなど、徳川・武田の激しい攻防戦が繰り広げられた。 1575年(天正3年)、長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍を破ると、家康は二俣城を奪還し大久保忠世を入城させている。 その後、何度か武田軍の攻撃を受けるが、大規模な修築工事を行ったため落城することはなかったのだという。 1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻め後、家康が関東移封になると、二俣城は豊臣の支配下となった浜松城の支城となるが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に廃城となった。 |
天守台は大久保忠世によるものと考えられている。 |
二俣城には井戸がなかったため、水は井戸櫓を設けて天竜川から汲んでいたのだという。 1572年(元亀3年)、遠江に侵攻した武田信玄は、天竜川上流から筏を流して井戸櫓の脚柱を破壊して水の手を絶ったのだと伝えられる。 清瀧寺には、二俣城に設けられていた井戸櫓が復元されている。 |
松平信康は、徳川家康の嫡男。 家康は信康に三河国の岡崎城を任せていたが・・・ 1579年(天正7年)、信康とその母・築山殿が武田に内通していたとして織田信長から殺害するよう命じられる。 家康は、8月29日に築山殿の殺害を命じ、9月15日には二俣城で信康を自害させたのだという。 |
※ | 近年の研究では、信康と対立した家康が自身の考えで自刃させたという説がある。 |
大岡弥四郎の謀反〜岡崎城を制圧する予定だった武田勝頼〜 |
西来院の月窟廟は、殺害された築山殿の廟堂。 |
清瀧寺は、徳川家康が松平信康の廟所として建立した寺院。 |
萬松院は、のちに小田原城の城主となった大久保忠世が信康を供養するために創建。 信康を自害させたことを悔やんでいたという忠世は、1594年(文禄3年)、信康が自害した日と同じ9月15日に死去。 自身が創建した大久寺に葬られたのだという。 |
西念寺は、信康の介錯を命じられたという服部半蔵が信康の慰霊のために創建した安養院を前身とする寺。 信康の供養塔と半蔵の墓が残されている。 |
松平信康の介錯を命じられた服部半蔵 |
大久保忠世は、源頼朝に仕えた下野国宇都宮氏の三代当主・朝綱の子孫ともいわれる。 大久保氏の先祖は、新田義貞に仕えた後、三河国に土着し、松平氏三代当主の信光に仕えるようになったのだという・・・ |
大久保忠世の先祖は源頼朝に仕えた宇都宮朝綱? |
静岡県浜松市天竜区二俣町 天竜浜名湖鉄道「二俣本町」駅から徒歩約10分。 |
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