|
1572年(元亀3年)10月、甲斐の武田信玄が徳川家康の本拠浜松城のある遠江に侵攻。 徳川に従属していた天野藤秀(景貫)、いち早く武田に寝返り犬居城を明け渡している。 信玄は犬居城に入った後、只来城・天方城・一宮城・飯田城・格和城・向笠城・匂坂城を攻略し、浜松城の支城だった掛川城・高天神城を孤立させることに成功。 一方、家康は浜松城の兵だけで合戦に臨んだが、一言坂の戦いで敗北。 殿(しんがり)を徳川四天王のひとり本多忠勝が務め、家康を浜松城へ帰還させている。 徳川軍を破った武田軍は、徳川方の重要な拠点で中根正照が守る二俣城を包囲するが・・・ 二俣城は天竜川と二俣川が合流する丘陵に築かれ、二つの川が天然の堀となっていた堅固な城。 武田軍は攻めあぐんだが、二俣城の水の補給手段を絶つことで、攻略に成功した。 城主の中根正照は浜松城に逃走。 三方ヶ原の戦いで討死している。 |
※ | 武田に寝返った天野藤秀は、源頼朝に仕えた天野遠景を祖としている。 |
二俣城には井戸がなかったため、水は井戸櫓を設けて天竜川から汲んでいたのだという。 信玄は、天竜川上流から筏を流して井戸櫓の脚柱を破壊して水の手を絶ったのだと伝えられる。 |
家康が嫡男信康の菩提を弔うために建立した清瀧寺には、二俣城に設けられていた井戸櫓が復元されている。 |
1570年(元亀元年)、家康は岡崎城から曳馬城に移り、新たに浜松城を築いて本拠としていた。 |
武田軍の攻撃に備えて籠城策をとっていた家康だったが・・・ 信玄は浜松城を素通り。 家康は作戦を変更して出撃するが三方ヶ原で大敗した。 |
|